2025年11月18日
西洋建築-ロマネスク
背景 カロリング帝国の建国 768年には国王として、800年には皇帝として君臨したカール大帝は、カロリング帝国*の永華を築きました。その支配域は、現在でいうフランス・ドイツ・イタリアに及びます。そしてカール大帝の下で、文化・経済・宗教が発展し、また教育・行政などの制度も整備されました。 カロリング帝国:8世紀から9世紀にかけて、フランク王国を統一し、大きな領土を支配したフランク王朝の王族であるカロリング家によって建国された帝国。 カロリング帝国の分裂と西洋社会の混乱 しかしカール大帝の死後、カロリング帝国 ...
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2025年11月18日
西洋建築-ビザンティン
背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...
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2025年11月18日
日本建築-書院造・数奇屋
時代背景 接客空間の発展 信長・秀吉の時代を経て、戦国の混迷を抜け出すと、軍事ではなく、接客空間が求められるようになりました。 書院造 そして試行錯誤の末、「書院造」という一つの型が完成します。主に、城郭や寺院・武家の邸宅などの厳格な建物で用いられました。 風書院 ただ、形式化の一方で、その枠をあえて脱線する、遊び心に富んだ邸宅建築も表れました。数奇な人に造られた書院ということで、数奇屋風書院造と言われます。しかし、正式な建築には相応しくない格好であったため、主に山荘などで用いられました。 造形 建物の顔 ...
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2025年11月18日
西洋建築-アール・ヌーヴォー
背景 新様式の準備 19世紀末、産業革命によって工業製品の生産が増え、大量生産や機械化が進む中で、人々の間に単調で機械的なデザインに対する反発が生まれていました。その代表格がアーツ・アンド・クラフツ運動です。彼らは手作りを重視することによって、自然の美しさや個性の再評価を図りました。 アーツ・アンド・クラフツはこの記事で解説 》建築-アーツ・アンド・クラフツ アーツ・アンド・クラフツ運動は、その理念こそ前進的であったものの、しかし中世主義という性格から、近代化と言える段階にまでは至れませんでした。その代わ ...
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2025年11月18日
日本建築-大衆寺院
時代背景 寺院にも自営が求められる 18世紀に入る頃には、幕府や諸藩の財政は悪化し、寺社の造営を行う力を失っていました。そのため、各寺社は自らでの資金調達を迫られます。その方法として、「開帳」「勧化」など、民衆から銭を集めるための行事に力を注ぎます。 行事の集金化 「開帳」は本来、寺社の秘仏などを開扉して、人々と神仏を結縁する宗教行為でした。しかし、財政に困っていた寺院は、「開帳」を堂舎の建立や修理費用のための集金事業として活用するようになったのです。 経済力を身につけた民衆 寺院が疲弊していた一方で、民 ...
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前の様式
時代背景
日米和親条約
1853年、日本とアメリカとの間で「日米和親条約」が結ばれると、日本近海への西洋船の来訪が増加しました。しかしこの条約にはアメリカ有利の条項*が盛り込まれていたため、日本側の不満は高まって行きます。
アメリカの船が日本の港に寄港する際、日本の法律や手続きを拒否することができました。また、アメリカ船の乗組員が日本人に対して犯罪行為を行った場合でも、アメリカの法律が適用されるという条項が盛り込まれていました。
これに対して、幕府は自国の主権を守るために「異国船打払令」を出しました。この法令は、外国船が日本の領海に侵入した場合には、その船を攻撃して撃沈することを許可するものでした。
幕府はこの法令を厳格に執行し、アメリカの船も含め、多数の外国船を打ち払います。かくして鎖国を貫く一方、アメリカをはじめとする欧米諸国による日本への圧力は強まって行きました。そんな中、国内でも「開国派」と「攘夷派」に分かれてしまいます。
開国派は、主に貿易や技術の導入などを通じて、日本の国力を高めることを目指していました。彼らは、幕府がこれまで取ってきた鎖国政策によって、日本が世界の中で取り残されてしまっていることに危機感を持ち、西洋諸国との接触を進めることで、日本の国際的な地位を向上させることができると考えたのです。また、西洋の文化や制度を学ぶことで、日本の文化や制度の改良や近代化を進めることも狙っていました。
一方の攘夷派は、幕府が外国との接触を深めることで、日本が自国の主権を失うことを危惧していました。彼らは外国との交流を拒絶し、外国人の排斥を主張することで、日本の独立性を守ることができると考えます。また攘夷派の中には、西洋文明やキリスト教が日本の伝統文化や価値観を脅かすものであるという考え方を持っている者もいました。
しかし、1842年の「アヘン戦争」によって清がイギリスに負けると、幕府も西洋諸国の脅威を認めざるを得なくなります。その後、欧米列強との間で次々と不平等条約が結ばれていくと、開国派が優勢になって行くのでした。
1868年の明治維新によって幕府が倒れ、新政府が発足すると、開国政策は本格化します。明治政府は、欧米列強との条約改正や新たな不平等条約の締結を進める一方で、技術や文化の導入、新たな法律制定などを行い、日本の近代化を進めることに成功しました。
特徴
1858年、日米修好通商条約が締結されると、幕府は長崎・神戸・横浜・函館・新潟の開港を許可しました。それに伴い、欧米の貿易商が大挙して日本に押し寄せます。彼らは、自らの優位な立場を活かし、眺めのよい場所に住居を構えたり、高いインフラ整備を要求しました。かくして、異人街が誕生したのです。
長崎
すでに江戸時代の頃から外国との窓口だった長崎が、開港地としての先陣を切ります。
旧香港上海銀行長崎支店
旧英国領事館
グラバー邸
横浜
幕府としては、日本人と外国人の接触によるトラブルを避けたいという思いがあったため、居留地を僻地に築こうと考えました。その舞台として、横浜が選ばれました。
横浜税関
兵庫
日本の重要な都市(大阪・京都)と近接していたため、外国の影響をいかに抑えるかという問題が生じました。さらに、大政奉還や鳥羽伏見の戦いなどもあって、開港・インフラ整備は大幅に遅れます。そして開港しても居留地が完成していないという状態でした。そのため、居留地外での雑居が認められ、特殊な町が形成されます。
北野異人館街
神戸居留地15番館
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年11月18日
西洋絵画−北方ルネサンス
舞台 アルプス以北 イタリアでルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、アルプス以北の国々でも独自の流れが形成されていました。イタリア・ルネサンスと区別して、北方ルネサンスと呼ばれます。 背景 市民階級の台頭 15世紀のフランドル地方では、「毛織物工業」と「国際貿易の振興」に伴って「市民階級」が台頭して来ました。 ありのままを描く それに呼応するように、「風景画」や「風俗画」なども受け入れられるようになります。 イタリア・ルネサンスでは「古典美」を理想の範としたのに対し、北方ルネサンスは自然や人間の姿を「 ...
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2025年11月18日
西洋絵画−イタリア・バロック
舞台 イタリア 16世紀後半のイタリア、おおよそ芸術活動の低迷期に入っていました。しかし、カラヴァッジョの活躍によって、ローマで新たな盛り上がりを見せます。その後、カラヴァッジョ様式は国際的な広がりを見せました。(本記事では、イタリアに比較的近しい展開を見せたフランドル・スペインも一緒に取り上げます) 背景 宗教改革に対抗するカトリック教会 カトリック協会の免罪符を直接のきっかけに、「宗教改革」が勃発。離れていった信者の心を取り戻すため、カトリック教会は「反宗教改革」に乗り出しました。 分かり易さを武器に ...
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2025年11月18日
西洋絵画−フランス・ロココ
舞台 フランス 絵画史の中でも、特にロココは時代区分の難しい様式です。そもそもロココとバロックの区分を認めない説もあります。そのため当ブログでは、ロココの特徴が最も顕著に現れている、フランスで展開されたロココのみを取り扱います。 背景 絶対王政に陰りが見え始める 「太陽王ルイ14世」は、神から与えられた王権の行使者としての役割を演じることの出来た「最後の王」でした。 それというのも、1715年に彼が他界すると、その絶対王政にも陰りが見え始め、「貴族等の側近勢力が台頭」して来たからです。 太陽王からの開放 ...
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2025年11月18日
2025年11月18日
西洋絵画−印象派
舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...
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