日本建築-密教

2025年6月23日

日本建築-縄文・弥生

時代背景 移動生活 縄文時代は、狩猟・採集の社会です。季節ごとに、動物の移動や植生の変化を追いかけながら、河川の周辺や台地の縁辺部で食べ物を獲得し生活していました。 農耕によって定住が可能に 弥生時代に入り、水稲農耕が広まっていくと、移動生活(狩猟・採集)から定住生活(農耕)へと変化しました。この変化による建築的な変化は、たとえば、場所選びに現れます。これまでは水被害を避けて、台地や丘陵が選ばれていたのに対し、水田に水を引くために水の便が良い場所が好まれるようになったのです。 貧富の差が生まれる 農耕文化 ...

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2025年6月23日

日本建築-近世寺院

時代背景 破壊の時代 戦国期は読んで字の如く「波乱の時代」でした。戦国大名たちによって繰り広げられる戦火の中で、多くの建物は失われて行きます。そのためこの時代は、新たな建築の生産というよりも、建築の破壊の時代でした。 渦中の寺院 幸か不幸か、当時の寺院も僧兵を構えるなど大名に比肩する勢力を誇っていたため、この争いの渦中に巻き込まれます。たとえば、延暦寺は信長の焼き討ちによって多くの建物が失われ、壊滅状態となりました。また東大寺は、松永久秀や三好三人衆らによる戦闘で戦火を被りました。 復興の時代 しかし16 ...

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2025年6月23日

日本建築-黄檗宗

時代背景 黄檗宗を輸入 徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。 黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。 黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕 ...

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2025年6月23日

日本建築-天守閣

時代背景 大名と張り合う寺院勢力 この時代の有力寺社(東大寺・興福寺・延暦寺など)は、荘園による寺社領の保持・僧兵による武装化によって、絶大な影響力・軍事力を誇っていました。寺社は戦国大名に比肩する一大勢力だったのです。 外来文化による破壊 そんな中、キリスト教の布教や交易のため、ヨーロッパ諸国から日本への来訪が増加します。これによって、多くの文化が持ち込まれました。フランシスコ・ザビエルなどがその例で、新文化の影響を受けた日本人にとっては、既存の世界観や価値観が打ち壊されることになりました。 芽生える火 ...

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2025年6月23日

西洋建築-ロココ

背景 ルイ14世と貴族 ルイ14世は、フランスの絶対王政期において、貴族たちを自身の権力の下に統制しようと努めました。彼は貴族たちに対して、彼らが持つ領地や特権を管理する役割を与え、その責任を負わせます。また、貴族たちに対して軍隊への奉仕も求めました。しかし、貴族たちが軍隊に奉仕することを嫌がったため、ルイ14世は貴族たちを厳しく取り締まることを余儀なくされました。 宮廷文化 宮廷文化を重んじていたルイ14世は、貴族たちを宮廷に招待して自分の側に置くことで、自身の権力強化を図ります。宮廷に招待された貴族た ...

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前の様式

時代背景

仏教と政治

この時代、仏教は政治と深い関係にありました*。また、寺院は政治的・官僚的な組織を形成していました*。そのため、寺院が勢力を強めて行くに従い、政治を左右する存在になって行きます。時には天皇位の簒奪さえも企てられました。かくして、政治に対する仏教の影響は看破できないものとなっていくのです。

仏教と政治:仏教伝来の当初、僧侶は天皇家に仕え、国家を守護する役割を担っていました。そのため、天皇家や貴族から保護を受けるようになります。彼ら政治権力者たちの思惑は、仏教を利用して自らの権威や権力を確立することでした。かくして僧侶自身も、政治的な力を持って行くのです。

寺院の官僚化:仏教は、釈迦が説いた教えを広めるために、弟子たちによって伝承され、各地に広がっていきました。しかし、それぞれの地域で伝承された仏教の教えや儀式が異なることが問題となり、その統一が求められるようになります。そして権威や地位を持つ者たちを中心に、仏教の組織化が進められることにより、官僚的な組織が形成されるのでした。

仏教の排除

こうした背景のもとで即位した桓武天皇は、社会の安定のためにも、仏教勢力を政治から排除する使命を自らに課しました。しかし、すでに京内に根付いている寺院を一新することは不可能であり、その打開策として、彼は遷都*を決断します。そして、新しい都の中には寺院を持ち込まないという方法をとるのでした。

遷都:首都を現在の位置から別の場所に移すこと

山岳での密教が始まる

かくして、平安京では寺院の建立が禁じられましたが、仏教そのものが禁止された訳ではありませんでした。平安時代初期には、朝廷は唐に遣唐使や学僧を送り込み、最澄・空海がそれぞれ密教を持ち帰ります。彼らによって、天台宗・真言宗が開かれ、また霊山信仰や修験道とも結び付き、日本独自の密教が発展しました。

特徴

現世利益

奈良時代の仏教の役割は「鎮護国家」、すなわち国を守ることでした。しかしそこから変質して、自己の現世のご利益に対する要望が強まっていきます。それらの願望と密接に関係する密教*がパトロンを集めるようになりました。

密教は、世俗的な欲望や感情を否定するのではなく、それらを肯定し、むしろそれらを利用して修行することを提唱しました。

恒久的な繁栄や長寿を求めるのは、世の権力者の常です。それ故、貴族層が密教に傾倒するのも自然の流れでした。彼らはパトロンとして、自分自身への見返りを期待して、真言や天台の寺院をつくっていきます。

山岳寺院

しかし桓武天皇の意向により、平安京内には基本的に寺院を建立することができなかったため、密教寺院は山岳地に寺地を求めました。そして奈良時代以前からあった山岳信仰と密接に絡んで、山中に寺院をつくっていきます。

これは実際、修行を重んじる密教にとっても都合の良いことでした。最澄は京の東にある比叡山に延暦寺を開き、空海は京から遠く離れた高野山に金剛峯寺を開きます。また新しい仏教であることを強調するために、奈良時代の主要な寺院建築とは違う文化を築いていきました。

造形

密教では主に「修法」といわれる宗教儀式を執り行い、貴族・皇族などは、このご利益を一番にあやかろうと考えます。彼らは寺院の重要なパトロンであったために、修法の場に隣接して礼堂と呼ばれる参列の空間が設けられることとなりました。

修法:自己の内面を深く探求することで、悟りを開き、人生の目的や意味を理解する。密教では主に、呪文・マントラ・ヨーガ・瞑想・儀式などの要素を組み合わせて行われます。

参列の空間が設けられる

宝生寺金堂

俗人が仏堂の近くに参列し、ご利益にあやかれるよう、梁間方向に建築が拡大していきます。

建物を目立たせる必要がなくなる

平安京では宗教的な要素は排除され、また密教は俗世から離れた所での修行を求めたため、山林寺院がつくられます。山中ではあまり高低は目立たず、そのため高い塔を建てる必要も薄まります。

宝生寺五重塔

出典元:るるぶ&more.

また、敷地の制約がある山岳寺院では、これまで重視された伽藍配置もそれほど意味を持たなくなりました。一応、比叡山全体の伽藍配置の計画もありますが、あくまでも建てられる場所に建てる、という構成になっています。

「修行の場」としての寺院

三仏寺投入堂

都市部では人々の目をひくことを意識して作られていたのに対し、僧の修行の場としての意味が強くなりました。その気持ちは、都において仏教が形骸化され、華麗な阿弥陀堂が建立される堕落ぶりに反発する形でますます強まり、まさに修行そのものを体現するような寺院も作られました。これは「懸造」と言われます。

多宝塔

石山寺多宝塔

出典元:Wikipedia

都城に建てられた塔は、基本的に同じ平面を積み上げる構成ですが、多宝塔は上下で違う形を取ります。また、塔は通常「三重塔・五重塔・七重の塔」のように、奇数の屋根を重ねますが、多宝塔は二層からなります。 

曼陀羅などを使用して、密教世界を表現

曼荼羅

仏舎利を収める建築から、密教世界の表現へと役割を変えました。建築の荘厳をするときに用いられます。

参考文献

日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社

建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館

建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会

日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社

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西洋建築史年表

日本建築史年表

2025年6月23日

西洋絵画−北方ルネサンス

舞台 アルプス以北 イタリアでルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、アルプス以北の国々でも独自の流れが形成されていました。イタリア・ルネサンスと区別して、北方ルネサンスと呼ばれます。 背景 市民階級の台頭 15世紀のフランドル地方では、「毛織物工業」と「国際貿易の振興」に伴って「市民階級」が台頭して来ました。 ありのままを描く それに呼応するように、「風景画」や「風俗画」なども受け入れられるようになります。 イタリア・ルネサンスでは「古典美」を理想の範としたのに対し、北方ルネサンスは自然や人間の姿を「 ...

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2025年6月23日

西洋絵画−フランス・バロック

舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...

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2025年6月23日

西洋絵画−ロマン主義

舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...

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2025年6月23日

西洋絵画−立体派〈キュビズム〉

著作権に対する配慮:当記事に掲載している模写作品の中には、著作権保護期間中のものが含まれています。そのため、「引用元(元絵)の明記」・「引用の必要性」・「画像は自前で用意すること」を徹底した上で、当記事の作成に望んでいます。 舞台 フランス 産業革命以来、急速な進歩によりもたらされた「世界の拡大化」は、多種多様な芸術運動の下、「専門化」・「分化」を押し進めました。そんな中で、新しい視覚体験が模索されます。そして、「形態」と「構成」の面で大きな変革が起きたのはフランスでした。 背景 感覚派から知性派へ 野獣 ...

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2025年6月23日

西洋絵画−マニエリスム

舞台 国際的な展開 イタリアに端を発したマニエリスムは、16世紀後半には国際的な広がりを見せます。 背景 反宗教改革に乗り出す カトリック教会が「反宗教改革」に乗り出す時代、「神秘的な表現」が求められるようになります。 絵画による奇跡体験 論理を持って「奇跡」を説明することは出来なくても、絵画の世界の中でならそれは可能になるからです。 劇的な表現の追求 それはやがて古典主義の特徴である、「穏やかさ」や「荘厳さ」、「静けさ」や「バランスの重視」に対して、より「魂の根源」に迫る表現に至りました。 ミケランジェ ...

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-日本建築史