西洋建築-ロマネスク

2025年11月18日

日本建築-黄檗宗

時代背景 黄檗宗を輸入 徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。 黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。 黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕 ...

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2025年11月18日

日本建築-禅宗様

時代背景 禅宗の伝来 12世紀末、栄西によって日本に禅宗がにもたらされました。禅宗では、これまでの仏教とは教義や儀式も異なるため、僧の生活や建築も変化していきます。 禅宗:仏教の教えを直接実践することで、真実を見出すことを目指します。基本的な修行としては、座禅が挙げられます。 14世紀頃までには、確固たる地位を築き上げることに成功しました。その背景には、得宗政権*や室町幕府が、既存の権門体制に代わる宗教勢力として、禅宗寺院に焦点が当てられたということがあります。得宗政権や室町幕府の支援を得て、禅宗は広く普 ...

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2025年11月18日

西洋建築-アーツ・アンド・クラフツ

背景 分業体制の始まり 19世紀後半のイギリスでは、産業革命によって工業化が進み、工業製品の需要も高まっていました。それに伴い、機械による大量生産や標準化が進む一方で、工芸品や手仕事の価値は低下していきます。 モリスが立ち上がる 機械的かつ分業的な生産方式を強いられる現状に、一人の男が声を挙げました。我らがW・モリスです。彼は機械による大量生産や標準化に反対し、手仕事や伝統工芸品の価値の再評価を図ったのです。 彼は芸術を労働における人間の悦びの表現であると主張しました。そして物作りの労働が悦びと感じられる ...

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2025年11月18日

西洋建築-古代ローマ

時代背景 小さな村落から始まったローマ市 紀元前753年に誕生したローマ市は、最初こそ小さな村落に過ぎませんでした。 ヨーロッパ全域へ領土を拡大 しかし、紀元前5世紀末までにはエトルリア*などの周辺都市国家を、紀元前3世紀中頃までには南イタリアのギリシャ植民都市を支配下に置き、紀元前1世紀末には地中海沿岸全域をほぼを手中に治めます。 エトルリア:古代イタリア半島に存在した文明です。紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけて栄えました。 異国文化を吸収 領土の拡大は、エトルリア文化や植民都市経由での古代ギリシャ文 ...

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2025年11月18日

日本建築史年表

縄文・弥生|日本の先史時代を通じて、人々は竪穴住居で生活し、何棟か集まって集落を形成していました 竪穴住居 高床式倉庫 飛鳥・奈良(寺院)|7世紀後半に入ると、遣唐使が頻繁に派遣され、唐の建築様式が導入されました 法隆寺 薬師寺 飛鳥・奈良(神社)|仏教建築の対抗馬として、神社建築も台頭して来ました 唯一神明造 大社造 住吉造 神仏習合|神社と寺院が結ばれることによって、新たな形式が生み出されました 日吉大社 密教|山岳信仰と結びつき、山林に寺院が建てられました 三仏寺投入堂 空海 最澄 浄土教|極楽浄土 ...

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前の様式

背景

カロリング帝国の建国

768年には国王として、800年には皇帝として君臨したカール大帝は、カロリング帝国*の永華を築きました。その支配域は、現在でいうフランス・ドイツ・イタリアに及びます。そしてカール大帝の下で、文化・経済・宗教が発展し、また教育・行政などの制度も整備されました。

カロリング帝国:8世紀から9世紀にかけて、フランク王国を統一し、大きな領土を支配したフランク王朝の王族であるカロリング家によって建国された帝国。

カロリング帝国の分裂と西洋社会の混乱

しかしカール大帝の死後、カロリング帝国はその後継者たちの内紛*によって分裂。さらにノルマン人やスラブ人、アラブ人などの蛮族の周辺諸国の侵攻が重なり、徐々に衰退していきます。

後継者たちの内紛:カール大帝は、自身の死後に帝国を3つの王国に分割することを望んでいました。しかし、カール大帝の長男ピピンは、父の死の直前に廃位され、その後、幽閉されてしまいます。残された次男カールマンと三男ルートヴィヒは、領土をめぐって争うのでした。

最終的に帝国は、843年のヴェルダン条約*によって、東フランク王国、西フランク王国、そして中部ロタリンギアを支配するロタリンギア王国に分割され、カロリング帝国としての終焉を迎えました。

ヴェルダン条約:843年に、フランク王国のルートヴィヒ敬虔王の3人の息子たちの間で分割相続が決められた条約。後に、東フランク王国はドイツ帝国に、西フランク王国はフランス王国に発展しました。

キリスト教による統一

カロリング帝国の滅亡後、ヨーロッパは混乱に陥っていました。多くの小さな王国や領主が現れ、互いに戦争を繰り返します。また、ヴァイキングの侵略やハンガリー人の侵攻などの外部からの脅威もありました。

そんな中、教皇の権威が高まり、カトリック教会がヨーロッパにおいて強い影響力を持つようになりました。政治情勢としては様々な勢力が乱立する一方で、精神的にはキリスト教によって統一されたのです。

カトリック教会が力を持った理由:①中世ヨーロッパにおいて、最も組織化され、安定した組織であった②教皇は神の使者であると信じられており、その権威を発揮することが出来た③カトリック教会は大きな富を保持していた③中世ヨーロッパにおいては、教会が唯一の学術機関であった…などが挙げられます。

特徴

地方勢力の台頭

カロリング帝国による中央集権的な政治体制が崩壊。領土は分割され、内乱が起こり、蛮族にも侵略される中、もはや中央の権力を当てにすることが出来なくなった地方勢力は、自分たちの力で身を護る必要がありました。

かくして、多くの小国が生まれ、地方分権の色合いが強くなります。各地方の独立意識や自治が自覚されたのです。このとき、西洋の原型が出来上がりました。

ロマネスク時代の共通意識

一方で、全体的に共通する原則もありました。それは、封建秩序の確立と修道院制度を背景にした物質・自然主義の否定です。この共通原理は、自然の外観にとらわれない新たなる形態を生み出すことになりました。

教会堂の再建

この時代の建築家に課せられた使命は、戦乱によって荒廃した町や村を復興し、破壊された教会堂を再建することでした。また、領土の整備や農村の再編成、経済の復興なども求められる中、その拠り所となったのは、当時最高の力を保持していた修道院です。

造形・表現

地方流派

ロマネスク建築は、厚い壁や小さな窓、柱の太さなど、堅牢な印象を持ちます。ただ、地元の材料や地元の職人による構法が用いられたため、地域によってそれぞれの特色を残しました。

フランス・ロマネスク

フランスで展開されたロマネスクでは、南方ラテンの建築文化(石造りヴォールト構法)と北方ゲルマンの建築文化(高さへの憧れ・多塔構想)が合流しました。

フォントネ修道院教会堂

石造りのヴォールトによって、内部空間の高さが大きくなり、光が美しく反射します。

ヴォールト構法が登場する記事》建築-古代ローマ

主に、身廊(左写真)はヴォールト、側廊(右写真)は交差ヴォールトです。

身廊は、三分割の真ん中部分、側廊は両脇部分です。また、身廊を側廊で支える構造になっているため、横の厚みがあるというのも一つの特徴です

サン・セルナン教会堂

フランス・ロマネスクの教会には、北方ゲルマン由来の高い塔がしばしば付属します。これは教会の建物自体よりも高く、周囲に目立つ存在となりました。

フランス西南・ロマネスク

フランスの西南地域では、ビザンティンやイスラム建築の影響を見せる極めて独創的な一連のバシリカ式教会堂が建設されました。

側廊を持たず、ドームが連続して架けられました。

ビザンティン建築の解説記事》建築-ビザンティン

イタリア・ロマネスク

一方、イタリアで展開されたロマネスクでは伝統が保持されました。高さへの憧れや多塔構想への関心は見られず、簡素なバシリカ式の建築様式が頑なに守られます。その一方で、個性的なデザインが施されています。

バシリカ:広い空間を確保するための建築様式で、大人数の収容に適しています。

バシリカ式が登場する記事》建築-初期キリスト

ピサ大聖堂

大小三つのバシリカが結合されたプランに、ビザンティンのモザイク・イスラムの尖頭アーチ・古代ローマの列柱など、様々な要素が組み合わされたこの聖堂は、明らかにフランス・ロマネスクとは異質の空気を放っています。

ドイツ・ロマネスク

ドイツで展開されたロマネスクでは、大規模な身廊と側廊を用いて、広い内部空間を実現しました。石造りの壁や柱、アーチなどの要素が精巧に組み合わされることで、構造の重厚感が強調されました。一方で、装飾は他のヨーロッパ諸国と比べて控えめです。

シュパイヤー大聖堂

中央の身廊を高く上げて、両側には低い側廊を設けることで、大きな内部空間を実現しています。また、西側には巨大なファサードを持っており、主塔が高くそびえ立っています。

スペイン・ロマネスク

スペインは長い間、イスラム支配下にありました。そのため、スペインロマネスクには、イスラム文化の影響が見られます。

モスクから転用されたモチーフや、イスラム建築の影響を受けた幾何学模様などが使われました。また、アラブ人が使っていたムドハル様式*のアーチ(半円形の小さなアーチを連ねたもの)が多用されました。

ムドハル様式:16世紀から19世紀にかけて、インドのムガル帝国で発展した建築様式。イスラム建築とインドの伝統的な建築様式が融合されました。

参考文献

西洋建築入門|著.森田慶一|東京大学出版会

建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会

西洋建築様式史|著.熊倉洋介・末永航・etc|美術出版社

美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社

次の様式

西洋建築史年表

日本建築史年表

2025年11月18日

西洋絵画−イタリア・バロック

舞台 イタリア 16世紀後半のイタリア、おおよそ芸術活動の低迷期に入っていました。しかし、カラヴァッジョの活躍によって、ローマで新たな盛り上がりを見せます。その後、カラヴァッジョ様式は国際的な広がりを見せました。(本記事では、イタリアに比較的近しい展開を見せたフランドル・スペインも一緒に取り上げます) 背景 宗教改革に対抗するカトリック教会 カトリック協会の免罪符を直接のきっかけに、「宗教改革」が勃発。離れていった信者の心を取り戻すため、カトリック教会は「反宗教改革」に乗り出しました。 分かり易さを武器に ...

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2025年11月18日

西洋絵画−フランス・バロック

舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...

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2025年11月18日

西洋絵画−オランダ・バロック

舞台 オランダ 16世紀末、「プロテスタント」勢力の強かったフランドル地方の北部にて、「スペイン領からの独立」を果たした新教国、オランダが誕生しました。 背景 イタリアからオランダへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてオランダにも広がりました。 プロテスタントの国 オランダ共和国として独立を果たし、「東インド会社等の国際貿易」により、目覚ましい「経済発展」を遂げたオランダは、その経済力を背景にオランダ独自の「市民文化」を繁栄させていました。 「プロテスタントの国」であったオランダでは、「教会よりも ...

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2025年11月18日

西洋絵画−フランス象徴主義

印象派に並行して、象徴主義が発展 舞台 フランス 象徴主義は各国において多様な発展を遂げました。中でも大きな影響を与えたのは、フランスにおいて展開された象徴主義です。 背景 もう一つの芸術運動 19世紀後半、印象派が盛り上がりを見せていたその頃、並行して別の流れが形成されていました。 商業化する芸術 先導したのは、「科学」と「機械万能」という時代における「実利的なブルジョア精神」や、「芸術の卑俗化」に嫌気がさした画家たちです。 人間の内面を描く 彼らは、人間存在とその運命に関する「深い苦悩」・「精神性への ...

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2025年11月18日

西洋絵画−後期印象派

一般に、スーラ・セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホの四天王を総称して後期印象派と呼ぶことが多いです。しかし、当ブログでは個人的な趣きもあって、新印象主義(スーラ)・セザンヌ・後期印象派(その他の画家)という風に細分化しています。 舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 時代背景は主に新印象主義と同じです。 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 ...

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-西洋建築史