2025年8月19日
西洋建築-デ・ステイル
背景 第一次世界大戦後 第一次世界大戦後、各国の経済は混乱し、人々の価値観や生活様式も変化しました。ストライキやデモなども行われるようになり、社会変革が急務となります。これは戦争に参加しなかったオランダにおいても例外ではありませんでした。 オランダは、中立を守ることによって国内の平和を維持しようとしました。しかし周辺諸国の経済的混乱や政治的変化の影響を受けないわけには行かず、大量の難民や貧困層、失業者などを抱え、経済的・社会的な不安定さが続きます。そんな中、社会主義的な政策や労働者の権利擁護が唱えられるの ...
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2025年8月19日
西洋建築-ゴシック・リヴァイバル
背景 啓蒙主義の台頭 17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、啓蒙主義が席感していました。啓蒙主義は、合理性や科学性を重視し、人間は理性的に考えるべきだと主張します。そのため、古典主義的な芸術や文化と相性が良く、古代ギリシャ・ローマの美学が模範となります。 しかし啓蒙主義が進展するにつれて、過度に理性を重視する考えに疑問を持つ人々が現れました。たとえば芸術においては、人間の感情や内面世界を無視して外面的な表現に囚われている節があり、また決まりきった規則や格式に基づくものが多く、個性や独創性が抑制する ...
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2025年8月19日
西洋建築-マニエリスム
時代背景 ローマの没落 1527年、ローマ劫掠が勃発。教皇クレメンス7世と対立していたスペイン皇帝カール5世は、ランツクネヒト*を雇って、ローマを占領・略奪させました。そして激しい略奪・虐殺にあったローマでは、多くの市民が命を失い、教皇クレメンス7世も逃亡を余儀なくされました。かくしてローマは政治的・経済的に弱体化し、周辺の大国から支配されるようになって行くのです。 ランツクネヒト:15世紀から16世紀にかけて、主にドイツ圏で編成された傭兵部隊の一種。戦術に長けており、近代戦術の先駆けとも称されました。 ...
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2025年8月19日
西洋建築-フランス・バロック
時代背景 ブルジョワ階級の台頭 フランスはアンリ4世の治世の下、ようやく政治的にも経済的にも安定した時代を迎えました。そしてこの安定期の中で、新興ブルジョワ階級が台頭してきます。彼らは商業・手工業・金融などで成功を収めた人々であり、血統による身分制度ではなく、自らの実績や成功によって社会的地位を確立しようとしました。 また、アンリ4世は彼らの支持を受けて王位に就いたこともあって、ブルジョワ階級の代表者を重用したり、商工業者や金融業者の権利を保障する政策を進めました。彼らに対して特権や称号を与え、社会的地位 ...
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2025年8月19日
西洋建築-ドイツ表現主義
背景 第一次世界大戦 1914年6月28日、オーストリア皇太子夫妻がセルビアの首都ベオグラードで暗殺されるという事件が起こります。これをきっかけに、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告しました。そしてオーストリア=ハンガリー帝国の後ろ盾となっていたドイツも、この戦争へ参加することになります。 当初のドイツは、急速に発展し、経済的・軍事的な力を蓄えていたため、早期に勝利すると楽観的に考えられていました。しかし戦争の泥沼化によって戦況は逆転し、最終的には敗戦という結果を迎えます。 敗戦後のドイツ ...
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前の様式
背景
カロリング帝国の建国
768年には国王として、800年には皇帝として君臨したカール大帝は、カロリング帝国*の永華を築きました。その支配域は、現在でいうフランス・ドイツ・イタリアに及びます。そしてカール大帝の下で、文化・経済・宗教が発展し、また教育・行政などの制度も整備されました。
カロリング帝国:8世紀から9世紀にかけて、フランク王国を統一し、大きな領土を支配したフランク王朝の王族であるカロリング家によって建国された帝国。
カロリング帝国の分裂と西洋社会の混乱
しかしカール大帝の死後、カロリング帝国はその後継者たちの内紛*によって分裂。さらにノルマン人やスラブ人、アラブ人などの蛮族の周辺諸国の侵攻が重なり、徐々に衰退していきます。
後継者たちの内紛:カール大帝は、自身の死後に帝国を3つの王国に分割することを望んでいました。しかし、カール大帝の長男ピピンは、父の死の直前に廃位され、その後、幽閉されてしまいます。残された次男カールマンと三男ルートヴィヒは、領土をめぐって争うのでした。
最終的に帝国は、843年のヴェルダン条約*によって、東フランク王国、西フランク王国、そして中部ロタリンギアを支配するロタリンギア王国に分割され、カロリング帝国としての終焉を迎えました。
ヴェルダン条約:843年に、フランク王国のルートヴィヒ敬虔王の3人の息子たちの間で分割相続が決められた条約。後に、東フランク王国はドイツ帝国に、西フランク王国はフランス王国に発展しました。
キリスト教による統一
カロリング帝国の滅亡後、ヨーロッパは混乱に陥っていました。多くの小さな王国や領主が現れ、互いに戦争を繰り返します。また、ヴァイキングの侵略やハンガリー人の侵攻などの外部からの脅威もありました。
そんな中、教皇の権威が高まり、カトリック教会がヨーロッパにおいて強い影響力を持つようになりました。政治情勢としては様々な勢力が乱立する一方で、精神的にはキリスト教によって統一されたのです。
カトリック教会が力を持った理由:①中世ヨーロッパにおいて、最も組織化され、安定した組織であった②教皇は神の使者であると信じられており、その権威を発揮することが出来た③カトリック教会は大きな富を保持していた③中世ヨーロッパにおいては、教会が唯一の学術機関であった…などが挙げられます。
特徴
地方勢力の台頭
カロリング帝国による中央集権的な政治体制が崩壊。領土は分割され、内乱が起こり、蛮族にも侵略される中、もはや中央の権力を当てにすることが出来なくなった地方勢力は、自分たちの力で身を護る必要がありました。
かくして、多くの小国が生まれ、地方分権の色合いが強くなります。各地方の独立意識や自治が自覚されたのです。このとき、西洋の原型が出来上がりました。
ロマネスク時代の共通意識
一方で、全体的に共通する原則もありました。それは、封建秩序の確立と修道院制度を背景にした物質・自然主義の否定です。この共通原理は、自然の外観にとらわれない新たなる形態を生み出すことになりました。
教会堂の再建
この時代の建築家に課せられた使命は、戦乱によって荒廃した町や村を復興し、破壊された教会堂を再建することでした。また、領土の整備や農村の再編成、経済の復興なども求められる中、その拠り所となったのは、当時最高の力を保持していた修道院です。
造形・表現
地方流派
ロマネスク建築は、厚い壁や小さな窓、柱の太さなど、堅牢な印象を持ちます。ただ、地元の材料や地元の職人による構法が用いられたため、地域によってそれぞれの特色を残しました。
フランス・ロマネスク
フランスで展開されたロマネスクでは、南方ラテンの建築文化(石造りヴォールト構法)と北方ゲルマンの建築文化(高さへの憧れ・多塔構想)が合流しました。
フォントネ修道院教会堂
石造りのヴォールトによって、内部空間の高さが大きくなり、光が美しく反射します。
ヴォールト構法が登場する記事》建築-古代ローマ
主に、身廊(左写真)はヴォールト、側廊(右写真)は交差ヴォールトです。
身廊は、三分割の真ん中部分、側廊は両脇部分です。また、身廊を側廊で支える構造になっているため、横の厚みがあるというのも一つの特徴です
サン・セルナン教会堂
フランス・ロマネスクの教会には、北方ゲルマン由来の高い塔がしばしば付属します。これは教会の建物自体よりも高く、周囲に目立つ存在となりました。
フランス西南・ロマネスク
フランスの西南地域では、ビザンティンやイスラム建築の影響を見せる極めて独創的な一連のバシリカ式教会堂が建設されました。
側廊を持たず、ドームが連続して架けられました。
ビザンティン建築の解説記事》建築-ビザンティン
イタリア・ロマネスク
一方、イタリアで展開されたロマネスクでは伝統が保持されました。高さへの憧れや多塔構想への関心は見られず、簡素なバシリカ式の建築様式が頑なに守られます。その一方で、個性的なデザインが施されています。
バシリカ:広い空間を確保するための建築様式で、大人数の収容に適しています。
バシリカ式が登場する記事》建築-初期キリスト
ピサ大聖堂
大小三つのバシリカが結合されたプランに、ビザンティンのモザイク・イスラムの尖頭アーチ・古代ローマの列柱など、様々な要素が組み合わされたこの聖堂は、明らかにフランス・ロマネスクとは異質の空気を放っています。
ドイツ・ロマネスク
ドイツで展開されたロマネスクでは、大規模な身廊と側廊を用いて、広い内部空間を実現しました。石造りの壁や柱、アーチなどの要素が精巧に組み合わされることで、構造の重厚感が強調されました。一方で、装飾は他のヨーロッパ諸国と比べて控えめです。
シュパイヤー大聖堂
中央の身廊を高く上げて、両側には低い側廊を設けることで、大きな内部空間を実現しています。また、西側には巨大なファサードを持っており、主塔が高くそびえ立っています。
スペイン・ロマネスク
スペインは長い間、イスラム支配下にありました。そのため、スペインロマネスクには、イスラム文化の影響が見られます。
モスクから転用されたモチーフや、イスラム建築の影響を受けた幾何学模様などが使われました。また、アラブ人が使っていたムドハル様式*のアーチ(半円形の小さなアーチを連ねたもの)が多用されました。
ムドハル様式:16世紀から19世紀にかけて、インドのムガル帝国で発展した建築様式。イスラム建築とインドの伝統的な建築様式が融合されました。
参考文献
西洋建築入門|著.森田慶一|東京大学出版会
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
西洋建築様式史|著.熊倉洋介・末永航・etc|美術出版社
美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社
次の様式
西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年8月19日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
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2025年8月19日
西洋絵画−マニエリスム
舞台 国際的な展開 イタリアに端を発したマニエリスムは、16世紀後半には国際的な広がりを見せます。 背景 反宗教改革に乗り出す カトリック教会が「反宗教改革」に乗り出す時代、「神秘的な表現」が求められるようになります。 絵画による奇跡体験 論理を持って「奇跡」を説明することは出来なくても、絵画の世界の中でならそれは可能になるからです。 劇的な表現の追求 それはやがて古典主義の特徴である、「穏やかさ」や「荘厳さ」、「静けさ」や「バランスの重視」に対して、より「魂の根源」に迫る表現に至りました。 ミケランジェ ...
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2025年8月19日
西洋絵画−後期印象派
一般に、スーラ・セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホの四天王を総称して後期印象派と呼ぶことが多いです。しかし、当ブログでは個人的な趣きもあって、新印象主義(スーラ)・セザンヌ・後期印象派(その他の画家)という風に細分化しています。 舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 時代背景は主に新印象主義と同じです。 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 ...
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2025年8月19日
西洋絵画−新印象主義
舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 「分析的な手法」を得意とした印象派は、物の「形態感」や「存在感」を失ってしまうという欠点を抱えていました。 新たな活路 印象派の色彩理論に共感しつつもこの弊害を重く見た後代の画家たちは、ここに新たな活路を見出します。 特徴と画家 求めすぎた理想 印象派は「光の ...
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2025年8月19日
西洋絵画−北方ルネサンス
舞台 アルプス以北 イタリアでルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、アルプス以北の国々でも独自の流れが形成されていました。イタリア・ルネサンスと区別して、北方ルネサンスと呼ばれます。 背景 市民階級の台頭 15世紀のフランドル地方では、「毛織物工業」と「国際貿易の振興」に伴って「市民階級」が台頭して来ました。 ありのままを描く それに呼応するように、「風景画」や「風俗画」なども受け入れられるようになります。 イタリア・ルネサンスでは「古典美」を理想の範としたのに対し、北方ルネサンスは自然や人間の姿を「 ...
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