背景 カロリング帝国の建国 768年には国王として、800年には皇帝として君臨したカール大帝は、カロリング帝国*の永華を築きました。その支配域は、現在でいうフランス・ドイツ・イタリアに及びます。そしてカール大帝の下で、文化・経済・宗教が発展し、また教育・行政などの制度も整備されました。 カロリング帝国:8世紀から9世紀にかけて、フランク王国を統一し、大きな領土を支配したフランク王朝の王族であるカロリング家によって建国された帝国。 カロリング帝国の分裂と西洋社会の混乱 しかしカール大帝の死後、カロリング帝国 ...
背景 新様式の準備 19世紀末、産業革命によって工業製品の生産が増え、大量生産や機械化が進む中で、人々の間に単調で機械的なデザインに対する反発が生まれていました。その代表格がアーツ・アンド・クラフツ運動です。彼らは手作りを重視することによって、自然の美しさや個性の再評価を図りました。 アーツ・アンド・クラフツはこの記事で解説 》建築-アーツ・アンド・クラフツ アーツ・アンド・クラフツ運動は、その理念こそ前進的であったものの、しかし中世主義という性格から、近代化と言える段階にまでは至れませんでした。その代わ ...
時代背景 ローマの没落 1527年、ローマ劫掠が勃発。教皇クレメンス7世と対立していたスペイン皇帝カール5世は、ランツクネヒト*を雇って、ローマを占領・略奪させました。そして激しい略奪・虐殺にあったローマでは、多くの市民が命を失い、教皇クレメンス7世も逃亡を余儀なくされました。かくしてローマは政治的・経済的に弱体化し、周辺の大国から支配されるようになって行くのです。 ランツクネヒト:15世紀から16世紀にかけて、主にドイツ圏で編成された傭兵部隊の一種。戦術に長けており、近代戦術の先駆けとも称されました。 ...
時代背景
黄檗宗を輸入

徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。
黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。

黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕生した宗派です。直感的で身体的な修行法である坐禅や行禅に重点を置き、また黄檗宗の寺院では広く一般に開かれた修行会が行われ、坐禅や読経などの仏教行事に参加することができたため、一般人にも取り入れやすい宗派として人気を集めました。

その後、海外との窓口であった長崎をはじめ、全国に黄檗宗寺院が建立されると、広間でのお茶会や禅堂での坐禅会などを目当てに近隣住民や観光客なども気軽に訪れるようになりました。
造形
伽藍の建立には日本人の工匠が従事しましたが、歴代の住職は中国の渡来僧が務めることが多く、そのため中国的な様式が堅持されました。
禅宗寺院と共通する点も多い
黄檗宗寺院は、日本式の建築様式や装飾を取り入れ、日本人に受け入れられやすいように設計されました。
二重の屋根

禅宗寺院になかった要素
アーチ状に造られた天井

円窓

中国的なデザインによって、異国情緒を表現
祟福寺第一峰門
斜めの組物によって軒下を覆いつくされています。
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
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