西洋建築-ビザンティン

2026年7月2日

西洋建築-ゴシック

背景 中央集権の基盤が整い始める 当時のヨーロッパは、多くの小国家や地方政府が存在し、権力の分散化が進んでいました。そんな中、国王たちは中央集権化政策を進め、自らの権力を強化し、統治の効率化を図ります。王権の強化、法律の統一、行政機構の整備、課税制度の整備などが行われました。かくして、地方領主の手中にあった統治が国王の下に回収されます。 中央集権化政策:政治的な権限や権力が中央政府に集中すること。 特に勢いがあったのは、ルイ7世です。各地の貴族や教会が持っていた法的な特権を制限することで、自身の王権強化に ...

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2026年7月2日

西洋建築-アール・ヌーヴォー

背景 新様式の準備 19世紀末、産業革命によって工業製品の生産が増え、大量生産や機械化が進む中で、人々の間に単調で機械的なデザインに対する反発が生まれていました。その代表格がアーツ・アンド・クラフツ運動です。彼らは手作りを重視することによって、自然の美しさや個性の再評価を図りました。 アーツ・アンド・クラフツはこの記事で解説 》建築-アーツ・アンド・クラフツ アーツ・アンド・クラフツ運動は、その理念こそ前進的であったものの、しかし中世主義という性格から、近代化と言える段階にまでは至れませんでした。その代わ ...

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2026年7月2日

西洋建築-アーツ・アンド・クラフツ

背景 分業体制の始まり 19世紀後半のイギリスでは、産業革命によって工業化が進み、工業製品の需要も高まっていました。それに伴い、機械による大量生産や標準化が進む一方で、工芸品や手仕事の価値は低下していきます。 モリスが立ち上がる 機械的かつ分業的な生産方式を強いられる現状に、一人の男が声を挙げました。我らがW・モリスです。彼は機械による大量生産や標準化に反対し、手仕事や伝統工芸品の価値の再評価を図ったのです。 彼は芸術を労働における人間の悦びの表現であると主張しました。そして物作りの労働が悦びと感じられる ...

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2026年7月2日

日本建築-飛鳥・奈良(寺院)

時代背景 仏教の伝来 六世紀半ば頃、仏教が百済から日本に伝来*しました。その教えが持ち込まれると同時に、それを体現する場として寺院建築が必要になり、それに由来して仏教建築の新技術が持ち込まれます。 聖明(百済の王子)は、日本の皇室との外交関係を深めるために、日本に渡来し仏教を伝えたとされています。 仏教を受け入れるか、拒否するか ただ、仏教は満場一致で受け入れられた訳ではありませんでした。いわゆる、「排仏派」と「崇仏派」に分かれます。 国際情勢に明るい蘇我氏は賛成 主に「崇仏」を主張したのは、渡来人勢力と ...

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2026年7月2日

西洋建築-フランス・ルネサンス

背景 フランスの近代化 ルネサンス期のフランスは、政治的・経済的・文化的に大きな発展を遂げました。先頭を切ったのはシャルル8世です。彼はフランス軍を再編成し、新しい兵器を導入して戦力を強化し、財政改革を実施して経済を活性化させました。そしてブルターニュを併合することによって、フランスの領土を拡大しました。また、イタリア遠征*も行いましたが、こちらは失敗に終わります。そして、彼は28歳にして、この世を去ってしまうのでした。 シャルル8世のイタリア遠征:シャルル8世は、ナポリ王国の領土をめぐってイタリアの諸都 ...

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前の様式

背景

首都『コンスタンティノポリス』の誕生

330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。

ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。

西洋社会の東西分裂

395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国に分断されてしまいます。そして帝国の分裂はそのままキリスト教会の分裂を意味しました。西はカトリック教会、東は正教会です。

カトリック教会:現在、世界で最も多くの信徒を有する教会の一つ。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教世界の中心的な役割を果たし、芸術、文化、教育、慈善事業などに貢献しました。

分裂の要因としては、一つに地域的・文化的な違いがあります。東ローマ帝国側は、ギリシャ文化やキリスト教の影響を強く受けており、一方で西ローマ帝国側は、ラテン文化や古代のローマの伝統に基づいていました。

東ローマ帝国の滅亡

西ローマ帝国は、5世紀から6世紀にかけて徐々に衰退し、最終的には476年に滅亡してしまいますが、一方東ローマ帝国は、東方で独自の文化や政治を発展させ、11世紀まで存続しました。

しかし12世紀を過ぎると、外敵の侵攻*や内部の政治的混乱*、経済的な要因*によって東ローマ帝国も衰退して行きます。1453年、オスマン帝国の軍勢によってコンスタンティノープルが陥落。東ローマ帝国は滅亡を迎えました。

①外敵の侵攻:東ローマ帝国は、多くの時代にわたって周辺国や異民族の攻撃に晒されていました。②内部の政治的混乱:皇位継承において起こる争いや、官僚制度の腐敗、貴族や地方豪族の反乱などが、政治的不安定さを引き起こしました。③経済的な衰退:東ローマ帝国は、西欧諸国と比べて地理的に不利な条件にあり、商業的な活動が制限されることが多かったため、経済的に衰退していきました。

ビザンティン文化の継承

しかし、その後もビザンティン文化そのものはギリシャやロシアへと広まり、発展を続けました。

特徴

統一制に欠けるカトリック教会

カトリック教会は世俗的な体制から独立した存在として、世界全土に君臨しようと図りました。しかしその支配域の広さから管理体制は盤上といかず、固有の様式と呼べるものは生まれませんでした。

聖俗両界の実権を握った正教会

一方で、正教会は皇帝という聖俗両界*にわたる権威によって統制されていました。そのおかげで、長期にわたる一つの様式が形成されたのです。これをビザンティン様式といいます。

聖俗両界:中世ヨーロッパにおいては、教会は政治や社会に深く関わっていました。世俗的な権力を持つ王や貴族たちと同じく、国家や社会の中で重要な地位を占めていたのです。このように、教会が政治や社会において大きな影響力を持ち、同時に宗教的な役割も果たす状態のことを聖俗両界といいます。

造形・表現

バシリカとドームの結合

ハギア・ソフィア大聖堂

神の表現について極めて厳格な正教会では、神の座としてのドームの象徴的意味が強く意識されます。しかし大人数を収容出来る広さも確保したかったため、バシリカ*とドームを組み合わせるという手法が試みられました。そして、大ドームを脇の半ドームで支えることで、構造的な問題を解決しました。

バシリカ:広い空間を確保するための建築様式で、大人数の収容に適しています。

バシリカが登場する記事》建築-初期キリスト教

窓を帯状に配置

大ドームの足元には帯状に窓が設置され、ここから差し込む光はこの世のものとは思えない感動を呼び起こします。また、この窓の存在によって構造的な部分が隠され、まるで大ドームが天井から神の手によって吊り下げられているかのような錯覚を覚えます。

ドームやアーチの多用

サン・ヴィターレ聖堂

アーチは、ドームやヴォールト構造を支えるために使われました。

華麗な色彩表現

壁・天井は大理石とガラスモザイクの華麗な色彩で覆われ、幻想的な室内が演出されました。

参考文献

西洋建築入門|著.森田慶一|東京大学出版会

建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会

西洋建築様式史|著.熊倉洋介・末永航・etc|美術出版社

美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社お知らせ

次の様式

西洋建築史年表

日本建築史年表

2026年7月2日

西洋絵画−印象派

舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...

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2026年7月2日

西洋絵画−フランス・新古典主義絵画

舞台 フランス 革命期からナポレオン時代にかけてのフランス。ナポレオンは絵画を、自らの理念の「プロパガンダ」として活用しました。そのため、絵画は記録的な意味合いを強めます。 背景 軽快なロココに対する反動 18世紀後半、「快楽主義的」で「感覚的」なロココ様式に対する反動として、美は表面的なものでなく「崇高」なものであると考える傾向が強まります。 崇高さを追求 そして、「装飾趣味」や「官能的な裸婦像」に代わって、「形而上的な内容」や「簡素で壮大な形態感覚」を備える古典美術が範とされました。 特徴と画家 相次 ...

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2026年7月2日

西洋絵画−初期ルネサンス

西洋絵画史の始まり 西洋絵画史の精神は「人間性の自覚」にある、というのが私の基本的な考えの立場です。そのため、当ブログでは、初期ルネサンスを西洋絵画史の始まりとします。 舞台 フィレンツェ 初期ルネサンスの舞台は、市民階級がいち早く台頭したイタリアの商業都市「フィレンツェ」です。 時代背景 キリスト教世界のほころび 中世ヨーロッパ社会は、これまで精神的にはキリスト教に支えられてきました。しかし、このキリスト教観というのは、人間を神の摂理にのみ従う下僕として、その限りにおいて人生の意義を認めるものでした。そ ...

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2026年7月2日

西洋絵画−盛期ルネサンス

舞台 ローマ 1492年、芸術文化を支えたロレンツォ・デ・メディチの没後、「フィレンツェ」は、ドメニコ会修道僧サヴォナローラの支配下に置かれ、やや停滞期を迎えます。その一方で、ユリウス二世に代表される辣腕の教皇の下で、「ローマ」は活気を取り戻しました。かくして、ルネサンスの舞台は「フィレンツェからローマへ」移ります。 背景 巨匠の時代 15世紀末から16世紀初頭にかけてのおよそ30年間、一般には盛期ルネサンスと呼ばれます。この時代は、「巨匠の時代」でした。 古代や自然の超克 彼らは自らの才能を自覚し、「古 ...

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2026年7月2日

西洋絵画−ヴェネツィア派

舞台 ヴェネツィア ローマで盛期ルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、東方とヨーロッパを結ぶ貿易で富を蓄積したヴェネツィアでは、別のルネサンスが誕生していました。一般に、ヴェネツィア派と呼ばれるものです。 背景 裕福な市民が誕生 ヴェネツィアでは、教会や市当局だけでなく、富裕で教養ある個人からの注文も盛んになりました。 個人受けする作品が流行 彼らは、伝統的な物語の著述よりも「感覚的な魅力」を要求します。 そのため、主題の重要性以上に、「鑑賞者が満足する」ような作品が好まれました。 特徴と画家 鮮やか ...

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-西洋建築史