2025年10月3日
日本建築-黄檗宗
時代背景 黄檗宗を輸入 徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。 黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。 黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕 ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋建築-イタリア・ルネサンス
前の様式 舞台 イタリア・ルネサンスの舞台は、市民階級がいち早く台頭したイタリアの商業都市「フィレンツェ」です。 時代背景 イタリアは、中世において商業や金融の中心地として栄え、豊かな都市国家へと発展しました。このような繁栄の中で、芸術家や学者が集まり、文化的な交流が盛んに行われるようになります。また、イタリアでは古代ローマや古代ギリシャの文化が受け継がれていましたが、ルネサンス期において、これはキリスト教中心の中世思想に対する反発という形をとって現れました。 キリスト教世界のほころび 中世ヨーロッパ社会 ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋建築-古代ギリシャ
時代背景 ドリス人の侵略 紀元前1100年頃、北方から南下してきたドリス人によって、先住のイオニア人やアルカディア人などが駆逐されました。 ポリスの形成 その後、紀元前800年頃には、村落を中心とした小さな都市国家ポリス*が形成され始めます。 ポリス:一定の地域に住む人々が、政治的・社会的な共同体を形成し、共同で自らの生活を統制する政治組織のことです。 しかし、あくまでもこの都市国家は、単に人々が集まり住んだものに過ぎず、都市として整備されたものではありませんでした。 古代民主政の誕生 ポリスは当初、農業 ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋建築-ビザンティン
背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...
ReadMore
2025年10月3日
日本建築-大仏様
時代背景 力をつける寺社 この時代の寺社は、各地に荘園*を持つようになり、財政的にも潤っていました。それに伴い、政治的な力も強めていきます。 荘園:領主が自らの所有する土地を農民や奴隷などに貸し出して、彼らからの税を収める経営形態。土地を借りる農民や奴隷は、作物や畜産物などの収穫物や一定の労役を支払うことによって生計を立てていました。 僧兵による武装化 寺社が権力を握る中、自分たちの力で社会を切り開き、大和国の実権を握ったのは平清盛でした。もちろん、もともと大和国での特権を保持していた南都寺院からすれば、 ...
ReadMore
前の様式
背景
フランスの近代化
ルネサンス期のフランスは、政治的・経済的・文化的に大きな発展を遂げました。先頭を切ったのはシャルル8世です。彼はフランス軍を再編成し、新しい兵器を導入して戦力を強化し、財政改革を実施して経済を活性化させました。そしてブルターニュを併合することによって、フランスの領土を拡大しました。また、イタリア遠征*も行いましたが、こちらは失敗に終わります。そして、彼は28歳にして、この世を去ってしまうのでした。
シャルル8世のイタリア遠征:シャルル8世は、ナポリ王国の領土をめぐってイタリアの諸都市と争い、1494年にイタリアに侵攻しました。彼は大規模な軍を率いてイタリア半島に進軍し、ナポリを占領しますが、しかし、戦争は数年にわたって続き、フランスの勢力圏を確立することはできませんでした。
彼の死後、王位を継いだのはルイ12世です。彼はイタリア遠征を再開し、ミラノ公国を征服してフランスの影響力を拡大しました。財政改革を推し進め、農業や商業の発展にも努めます。フランス法の再編成や司法制度の改革など、行政面でも重要な改革を行いました。
ルイ12世の死後は、息子のフランソワ1世が王位を継ぎます。彼は自らをルネサンス君主と位置づけ、芸術・文化の振興に力を入れました。ルーブル美術館の設立・フランス語の公用語化などが彼の業績です。イタリアから多くの芸術家や学者を招聘しました。
フランス・ルネサンスを締めくくるのは、アンリ4世です。彼は即位後、フランスの再建を目指して、内政改革を進めました。貴族の権力を制限し、税制や司法制度の改革を行います。中央集権化を進めることで、国家統一を図ったのです。また宗教的寛容政策*を採用することによって、当時激化していたカトリック派とプロテスタント派の間の宗教戦争を終結させました。
宗教的寛容政策:アンリ4世は、プロテスタント教徒に対して宗教的自由、公職就任、軍役免除、学校の設立など一定の権利が認めました。これによって、一時的ではあるものの宗教的対立の緩和に成功しました。また、プロテスタント側の国々を支援することは、カトリック勢力の拡大を防ぐ効果もありました。
シャルル8世→ルイ12世→フランソワ1世→アンリ4世へとバトンが繋がれてきたこの一世紀間において、ヨーロッパの中心となるフランス近代国家の基礎が築かれました。
特徴
イタリアに軍隊を派遣
16世紀頃、比較的早い段階から統一国家を形成していたフランスは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝と張り合うようにイタリアに介入して軍隊を送っていました。実際にいくつかの都市国家を支配下に置きます。この接触を介してフランスは、イタリア発のルネサンスを受容したのでした。
この背景には、軍事力ではイタリアを凌いでいながらも、文化面ではイタリアへの憧れの念が強かったという事情があります。
王家の下で発展
しかし、伝統的なゴシック発祥の地でもあるフランスにおいてはルネサンスの新しい風は簡単には受け入れられず、あくまでもその影響は王家周辺に限られました。そのため、宗教建築はほとんど見られず、王や貴族の城館が主流となります。
造形と表現
フランスに伝えられたルネサンス様式は、既にマニエリスム期に突入していたこともあり、かなり偏ったものでした。ここにフランスのゴシック的な伝統が混ざり合って生まれたフランス・ルネサンスには、イタリアにはない特徴が見られます。フランスにおいて美術家を厚遇し文化の発展を支援したのは、自らルネサンスの文化に通じていたフランソワ1世です。彼の治世初期に、ブロワ城(の一部)やシャンボールなどが建設されました。
急勾配の大きな屋根・垂直線の強調
ブロア城
急勾配の大きな屋根や垂直線の強調からはフランスの伝統が見受けられます。
細部の古典的なデザイン・全体の統合された構成
シャンボール
それまでの城館の形を受け継ぎながらも、細部の古典的なデザインと全体の統合された構成には、はっきりとルネサンスの影響が表れています。
正確な古典主義
フランス人最初の建築家、Ph・ド・ロルムの登場によって、フランスは自国の独自性を確立しました。ロルムによる3層の凱旋門モチーフには、それぞれ3種の古典的オーダーが用いられ、古典的な細部が示されています。これは、彼の知識あってこそ成し得る所業でした。
参考文献
西洋建築入門|著.森田慶一|東京大学出版会
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
西洋建築様式史|著.熊倉洋介・末永航・etc|美術出版社
美術史〈西洋〉|編・中山公男 中森義宗|近藤出版社
次の様式
西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年10月3日
西洋絵画−ヴェネツィア派
舞台 ヴェネツィア ローマで盛期ルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、東方とヨーロッパを結ぶ貿易で富を蓄積したヴェネツィアでは、別のルネサンスが誕生していました。一般に、ヴェネツィア派と呼ばれるものです。 背景 裕福な市民が誕生 ヴェネツィアでは、教会や市当局だけでなく、富裕で教養ある個人からの注文も盛んになりました。 個人受けする作品が流行 彼らは、伝統的な物語の著述よりも「感覚的な魅力」を要求します。 そのため、主題の重要性以上に、「鑑賞者が満足する」ような作品が好まれました。 特徴と画家 鮮やか ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋絵画−新印象主義
舞台 フランス 印象派に続き、フランスが芸術の中心地として君臨しています。 背景 印象派の乗り越え 時代の寵児であった印象派も、1886年には最後の展覧会を迎え、いよいよ批判と反省の対象として乗り越えられる存在になります。 物の形を犠牲にした印象派 「分析的な手法」を得意とした印象派は、物の「形態感」や「存在感」を失ってしまうという欠点を抱えていました。 新たな活路 印象派の色彩理論に共感しつつもこの弊害を重く見た後代の画家たちは、ここに新たな活路を見出します。 特徴と画家 求めすぎた理想 印象派は「光の ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋絵画−フランス・ロココ
舞台 フランス 絵画史の中でも、特にロココは時代区分の難しい様式です。そもそもロココとバロックの区分を認めない説もあります。そのため当ブログでは、ロココの特徴が最も顕著に現れている、フランスで展開されたロココのみを取り扱います。 背景 絶対王政に陰りが見え始める 「太陽王ルイ14世」は、神から与えられた王権の行使者としての役割を演じることの出来た「最後の王」でした。 それというのも、1715年に彼が他界すると、その絶対王政にも陰りが見え始め、「貴族等の側近勢力が台頭」して来たからです。 太陽王からの開放 ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋絵画−フランス・新古典主義絵画
舞台 フランス 革命期からナポレオン時代にかけてのフランス。ナポレオンは絵画を、自らの理念の「プロパガンダ」として活用しました。そのため、絵画は記録的な意味合いを強めます。 背景 軽快なロココに対する反動 18世紀後半、「快楽主義的」で「感覚的」なロココ様式に対する反動として、美は表面的なものでなく「崇高」なものであると考える傾向が強まります。 崇高さを追求 そして、「装飾趣味」や「官能的な裸婦像」に代わって、「形而上的な内容」や「簡素で壮大な形態感覚」を備える古典美術が範とされました。 特徴と画家 相次 ...
ReadMore
2025年10月3日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
ReadMore