日本建築-室町

2026年9月30日

日本建築-禅宗様

時代背景 禅宗の伝来 12世紀末、栄西によって日本に禅宗がにもたらされました。禅宗では、これまでの仏教とは教義や儀式も異なるため、僧の生活や建築も変化していきます。 禅宗:仏教の教えを直接実践することで、真実を見出すことを目指します。基本的な修行としては、座禅が挙げられます。 14世紀頃までには、確固たる地位を築き上げることに成功しました。その背景には、得宗政権*や室町幕府が、既存の権門体制に代わる宗教勢力として、禅宗寺院に焦点が当てられたということがあります。得宗政権や室町幕府の支援を得て、禅宗は広く普 ...

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2026年9月30日

西洋建築-フランス・新古典主義

背景 ヨーロッパ随一の絶対主義国家 フランスは17世紀後半、ルイ14世の時代を持って王権が頂点に達し、ヨーロッパ随一の絶対主義国家に成長しました。ルイ14世は絶対王政下で全権を握り、貴族や教会、一般市民にも厳しい統制を加えます。そして中央集権的な行政組織を整備し、強大な軍事力を築きました。 しかしその一方で、ルイ14世の統治による莫大な財政負担や、貴族・教会の排除などに対する不満は蓄積していきます。 ルイ14世亡き後は、ルイ15世が即位し、専制政治を引き継ぎましたが、この時にはすでに王権の権威は低下してお ...

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2026年9月30日

西洋建築-ゴシック・リヴァイバル

背景 啓蒙主義の台頭 17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、啓蒙主義が席感していました。啓蒙主義は、合理性や科学性を重視し、人間は理性的に考えるべきだと主張します。そのため、古典主義的な芸術や文化と相性が良く、古代ギリシャ・ローマの美学が模範となります。 しかし啓蒙主義が進展するにつれて、過度に理性を重視する考えに疑問を持つ人々が現れました。たとえば芸術においては、人間の感情や内面世界を無視して外面的な表現に囚われている節があり、また決まりきった規則や格式に基づくものが多く、個性や独創性が抑制する ...

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2026年9月30日

西洋建築-ビザンティン

背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...

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2026年9月30日

西洋建築-アーツ・アンド・クラフツ

背景 分業体制の始まり 19世紀後半のイギリスでは、産業革命によって工業化が進み、工業製品の需要も高まっていました。それに伴い、機械による大量生産や標準化が進む一方で、工芸品や手仕事の価値は低下していきます。 モリスが立ち上がる 機械的かつ分業的な生産方式を強いられる現状に、一人の男が声を挙げました。我らがW・モリスです。彼は機械による大量生産や標準化に反対し、手仕事や伝統工芸品の価値の再評価を図ったのです。 彼は芸術を労働における人間の悦びの表現であると主張しました。そして物作りの労働が悦びと感じられる ...

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前の様式

時代背景

南北朝時代

鎌倉幕府による長期政権は、200年以上に渡りました。しかし14世紀に入ると、幕府内部に対立が生じるようになります。そして1333年、後醍醐天皇が幕府に反旗を翻して、建武政権を開きました。

建武政権:後醍醐天皇の直轄支配下にある新たな政治体制。天皇としての権威を回復し、幕府を打倒することを目的としました。

建武政権の初代天皇となったのは、後醍醐天皇の皇子である光明天皇です。しかし鎌倉幕府の滅亡を実現できぬまま、建武政権は1348年に崩壊します。そして、建武政権崩壊後に成立した北朝には、後醍醐天皇の孫である光厳天皇が最初の天皇として任命されました。

事が複雑になったのは、主に各地の武士団は光明天皇の系統を支持し、朝廷や官僚は光厳天皇の系統を支持したことによると考えられます。さらに鎌倉幕府の解体*により、武士団同士の対立も激化。かくして日本は南朝と北朝に分断されるのです。

財政難や内部での対立、「元寇の戦い」による軍事力の低下などが重なり、鎌倉幕府は解体してしまいました。

北山文化

この南北朝の動乱を経た後、二つの朝廷を統一したのは足利義満でした。義満は、各地の守護や国人領主を味方につけて勢力を拡大すると、将軍としての権威を背景に、南北間の和平を成立させます。これによって公武が融合し、新たな文化が生まれました。義満の造営した北山殿の名を冠して、「北山文化」といわれるものです。その中で、唐物趣味も高じていきました。

特徴

寝殿造を受け継ぐ

鎌倉幕府は京都から情報を接取するのに苦労していましたが、室町幕府は京都に拠点を置いたこともあって、公家との関係も強く、また将軍自体が公家化することもありました。これ故に、将軍邸は寝殿造*の影響を受けます。

寝殿造の基本構成①:寝殿を中心に、その南庭を対・渡殿・中門廊がコの字型に囲みます。またほとんどの場合、左右対称の空間構成ではなく、左右どちらを縮小・省略した非対称の構成となっています。それというのも、東西いずれかの門を正門としたため、左右に重要度の偏りが生じたからです。

寝殿造の基本構成②:また、貴族によって形成された寝殿造の空間では、多くの儀式やその場面に応じて機能を変える必要がありました。その際に活用されたのが、壁代・すだれ・屏風・ついたて・几帳などの屏障具による、間仕切りです。また、これらの屏障具に台・棚・箱などを加えて調度といいます。この調度品によって部屋を仕切る室礼という方法が寝殿造ではとられました。これによって、儀式や客人に応じてレイアウトを替えることが可能となり、室内の様相を変えることが出来たのです。

時代背景:8世紀後半、天皇中心社会の再構築を図った天武天皇でしたが、その後、天皇と婚姻関係を結んだ藤原氏が摂政関白の立場で力を付けていき、摂関政治が始まります。摂関政治が始まると、天皇の存在は有名無実化していきました。それに伴い、威光を示すための宮殿建築なども必要とされなくなります。そんな藤原氏を頂点とする摂関政治は、まさに貴族社会の時代でした。そして平安京に住む貴族たちによって文化は成熟します。建物と庭園の一体化など、寝殿造のスタイルはこのような時代背景のもとで作られました。

特徴:寝殿造は、身分の差を感じさせる装置でもありました。たとえば、寝殿造の邸宅周囲を囲む塀や桧皮葺は上位の官人にしか許されず、また建物の内側が儀式の場、外側が待ち人の場という風に強く内外が区別され、床に上がれるものと床に上がれないものという風に、身分階層を視覚によって表したのです。

東山文化

八代将軍・義政の時代に至ると、能楽・水墨画・茶の湯などの発展とともに、座敷構えや座敷飾りの文化が醸成され、庭園の発達とともに両者が融合しました。この時代の文化を、義政が造営した東山殿にちなんで、東山文化と呼びます。これは、やがて座敷構えを備えた書院造の礎となるものでした。

造形

1192年、鎌倉幕府の開幕により、武家社会が到来しました。当初の武家住宅は、寝殿造を基本としたものでしたが、封建制度に由来して、次第に主君御成のための接客施設という役割を担うようになります。かくして、接客空間と生活空間の分離が進行するのでした。

築地塀

門

この時代、門は身分社会を表すものでもありました。たとえば、正門を通って良い人、脇門から入らなければならない人という風にです。他にも、勅使門といい、勅使が来たときにしか開かない門、天皇の行幸や将軍の御成の際にだけ開かれる門などもあります。

画一的な様式でまとめるのでなく、各層ごとに様々な要素を持ち込む

舎利殿(金閣)

一層目は、蔀なども用いた寝殿造の要素のある住宅風です。これは人の世界が一番下、ということを暗示しています。二層目は、和様の仏殿風です。和様の形式ということは、密教を表していると考えられます。三層目は、禅宗様の要素を用いた仏堂です。当時将軍が庇護していたのが禅宗なので、各層の順番は社会階層を表している、という説が有力となっています。

観音殿(銀閣)

出典元:銀閣寺

二層からなる観音殿も、並び順は金閣と同様の意味で考えられます。一層目は住宅風、二層目は禅宗様仏殿風です。

書院造

東求堂同仁斎

出典元:e静岡

この時代頃から、座敷構えの床・棚・書院・帳台構えが社会的なステータスとなります。また建物の形式だけでなく、そこに何を置くかも大事になっていきます。花瓶・唐物・絵画・掛け軸など、飾り付けの要素が加わったのです。

参考文献

日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社

建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館

建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会

日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社

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西洋建築史年表

日本建築史年表

2026年9月30日

西洋絵画−ヴェネツィア派

舞台 ヴェネツィア ローマで盛期ルネサンスが盛り上がりを見せていたその頃、東方とヨーロッパを結ぶ貿易で富を蓄積したヴェネツィアでは、別のルネサンスが誕生していました。一般に、ヴェネツィア派と呼ばれるものです。 背景 裕福な市民が誕生 ヴェネツィアでは、教会や市当局だけでなく、富裕で教養ある個人からの注文も盛んになりました。 個人受けする作品が流行 彼らは、伝統的な物語の著述よりも「感覚的な魅力」を要求します。 そのため、主題の重要性以上に、「鑑賞者が満足する」ような作品が好まれました。 特徴と画家 鮮やか ...

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2026年9月30日

西洋絵画−オランダ・バロック

舞台 オランダ 16世紀末、「プロテスタント」勢力の強かったフランドル地方の北部にて、「スペイン領からの独立」を果たした新教国、オランダが誕生しました。 背景 イタリアからオランダへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてオランダにも広がりました。 プロテスタントの国 オランダ共和国として独立を果たし、「東インド会社等の国際貿易」により、目覚ましい「経済発展」を遂げたオランダは、その経済力を背景にオランダ独自の「市民文化」を繁栄させていました。 「プロテスタントの国」であったオランダでは、「教会よりも ...

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2026年9月30日

西洋絵画−印象派

舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...

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2026年9月30日

西洋絵画史年表

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2026年9月30日

西洋絵画−フランス・バロック

舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...

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-日本建築史