日本建築-大仏様

2026年8月16日

日本建築-霊廟

時代背景 真の武家政治 室町幕府は、足利氏による武士の政権であるとはいいつつも、京に拠点を置き、貴族趣味的な文化の中で生きながらえ*てきました。貴族や寺院を保護し、彼らからの支援を受けることによって政権の基盤を固めていたのです。 ただ、戦国時代においては、戦国大名や戦国武将たちの興隆を支援することにも取り組んでいました。このことから、戦国大名たちとの関係性を軽視していたわけではないということが伺えます。 その一方で、江戸幕府は京から遠く離れた地に拠点を築き、武士階級が中心となる社会制度*を整備しました。武 ...

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2026年8月16日

日本建築-禅宗様

時代背景 禅宗の伝来 12世紀末、栄西によって日本に禅宗がにもたらされました。禅宗では、これまでの仏教とは教義や儀式も異なるため、僧の生活や建築も変化していきます。 禅宗:仏教の教えを直接実践することで、真実を見出すことを目指します。基本的な修行としては、座禅が挙げられます。 14世紀頃までには、確固たる地位を築き上げることに成功しました。その背景には、得宗政権*や室町幕府が、既存の権門体制に代わる宗教勢力として、禅宗寺院に焦点が当てられたということがあります。得宗政権や室町幕府の支援を得て、禅宗は広く普 ...

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2026年8月16日

日本建築-密教

時代背景 仏教と政治 この時代、仏教は政治と深い関係にありました*。また、寺院は政治的・官僚的な組織を形成していました*。そのため、寺院が勢力を強めて行くに従い、政治を左右する存在になって行きます。時には天皇位の簒奪さえも企てられました。かくして、政治に対する仏教の影響は看破できないものとなっていくのです。 仏教と政治:仏教伝来の当初、僧侶は天皇家に仕え、国家を守護する役割を担っていました。そのため、天皇家や貴族から保護を受けるようになります。彼ら政治権力者たちの思惑は、仏教を利用して自らの権威や権力を確 ...

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2026年8月16日

西洋建築-ロマネスク

背景 カロリング帝国の建国 768年には国王として、800年には皇帝として君臨したカール大帝は、カロリング帝国*の永華を築きました。その支配域は、現在でいうフランス・ドイツ・イタリアに及びます。そしてカール大帝の下で、文化・経済・宗教が発展し、また教育・行政などの制度も整備されました。 カロリング帝国:8世紀から9世紀にかけて、フランク王国を統一し、大きな領土を支配したフランク王朝の王族であるカロリング家によって建国された帝国。 カロリング帝国の分裂と西洋社会の混乱 しかしカール大帝の死後、カロリング帝国 ...

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2026年8月16日

日本建築-神仏習合

時代背景 6世紀前半、朝鮮半島を通じて中国からの文化が日本に伝来し、やがて日本独自の文化が形成される中で、神道と呼ばれる民間信仰が発展しました。そして神祇体制が敷かれることによって、神道は国家宗教となります。 一方で、7世紀には中国から仏教が伝来します。異なる教義や儀式を持つ仏教は、当初は神道との対立を避けられないと思われました。しかし8世紀後半頃になると、神道と仏教の間には相互の影響が生じ、信仰の融合が進んでいきました。神社においても仏教的な儀式や仏像が導入され、仏教寺院においても、神道的な信仰や神社に ...

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前の様式

時代背景

力をつける寺社

この時代の寺社は、各地に荘園*を持つようになり、財政的にも潤っていました。それに伴い、政治的な力も強めていきます。

荘園:領主が自らの所有する土地を農民や奴隷などに貸し出して、彼らからの税を収める経営形態。土地を借りる農民や奴隷は、作物や畜産物などの収穫物や一定の労役を支払うことによって生計を立てていました。

僧兵による武装化

寺社が権力を握る中、自分たちの力で社会を切り開き、大和国の実権を握ったのは平清盛でした。もちろん、もともと大和国での特権を保持していた南都寺院からすれば、それは面白い話ではありません。彼らは、自らの特権が侵されることを理由に平家と対立、皇室や摂関家の権威を盾に、僧兵を組織し武装化しました。

平氏vs対抗勢力

しかし、後白河法皇や関白藤原基房が平清盛の軍事力によって制圧されると、いよいよ南都寺院の立場も危うくなります。そこで、平氏と対立する勢力(諸国の源氏・延暦寺・園城寺など)と手を組み、いよいよ争いは本格化していったのです。

南都焼き討ち

大きな動きがあったのは1180年。平清盛の命を受けた平重衡率いる四万の軍勢が、僧兵をなぎ倒して南都に攻めいります。これによって、奈良時代に建てられた大伽藍の大半が焼き尽くされる事態となりました。

寺院の復興

しかしその後、源頼朝によって平家は追討。頼朝は「守護」・「地頭」を設置し、武家の安定政権を築いていきました。そして頼朝は、人心掌握の手段として、平氏に焼かれた寺院の復興に力を入れます。その象徴ともいえるのは、東大寺大仏殿の再建です。平氏によって焼かれた大仏殿を源氏が復興することは、平氏から源氏への移り変わりを世に知らしめるものでもあったからです。

守護:地方の支配者。一定の地域に対する統治権限を有し、軍事的な力を背景に、その地域を支配しました。また、守護は、領主や国司、朝廷などの中央政権との連絡役としても機能しました。

地頭:領主や守護などの支配層と領民との間に立って、地域社会を取りまとめる重要な役割を果たしました。

頼朝の協力

もっとも、東大寺の復興を始めたのは後白河法皇でした。ただ、源頼朝が守護や地頭を各地に置いていたため、後白河法皇は現地の地頭たちから反発を受け、復興に少々手こずっていました。しかし、頼朝が東大寺復興への協力の意思を示した*ことにより、復興は進展します。

頼朝が東大寺復興を援助したのは、畿内での影響力を示すためでした。頼朝は子供の頃に伊豆に流されており、畿内の中央政権付近にはいなかったため、中央での影響力がまだなかったからです。大きな建築事業は、社会に影響力を誇示する絶好の機会だったのです。

特徴

材料不足

東大寺の復興は困難を極めました。理由の一つとして、木材の調達に苦戦したというのがあります。復興するべき大仏殿は、当時にして最大規模を誇るものであったため、その再建には長く太い木を大量に用意する必要があったからです。また、この時代の時点ですでに大材を使った建物が多数造られていたことも要因に挙げられます。

強度不足

再建を難しくしたもう一つの理由として、当時の建築技術における「構造的な欠陥」も挙げられます。特に地震などによる水平方向の力に弱く、それ故たちまち大地震によって大きな被害をこうむるのでした。

これらの経済的・技術的な難題を解決するべく、中国から新たに導入された工法・構法が大仏様です。

造形

大仏様の元となったのは、中国福健省近辺の建築様式といわれており、実際に中国への渡航経験があった重源によってもたらされました。

材料の節約

東大寺鐘楼

長い部材を節約するために、継手・仕口が多用されました。また、太い部材を節約するために、断面が円形の虹梁が使用されました。

分厚い板を節約するために、扉には桟唐戸が用いられ、藁座を付けて扉が吊られました。

浄土寺浄土堂

出典元:日日日影新聞

天井を張らなくてよい「化粧屋根裏」を採用し、部材を節約すると同時に、重量も減らし、構造的な強化を図りました。

構造の強化

東大寺南大門

地震などにも強いつくりとするため、柱を貫通する部材(貫・挿肘木など)を多様して、軸部を水平方向に固めました。

また、柱を貫通した部材の先端に木鼻を設けることで、隅柱上部で頭貫を十字形に直交させ、組み固めることが可能となりました。これも構造の強化へと繋がります。

大仏様のその後

東寺金堂

大仏様は、巨大建築のための技術であったため、それ自体が広く普及することはありませんでした。また、大仏様は重源が関わった建物にほぼ限定されるという側面もあります。そのため、様式としての規範はなく、あくまでもそれは参考にされる具合で、後代へと受け継がれていきました。ただ、ここで用いられた様々な工夫は後代にも受け継がれ、日本建築の発展にも大きく寄与することになります。

参考文献

日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社

建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館

建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会

日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社

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西洋建築史年表

日本建築史年表

2026年8月16日

西洋絵画−オランダ・バロック

舞台 オランダ 16世紀末、「プロテスタント」勢力の強かったフランドル地方の北部にて、「スペイン領からの独立」を果たした新教国、オランダが誕生しました。 背景 イタリアからオランダへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてオランダにも広がりました。 プロテスタントの国 オランダ共和国として独立を果たし、「東インド会社等の国際貿易」により、目覚ましい「経済発展」を遂げたオランダは、その経済力を背景にオランダ独自の「市民文化」を繁栄させていました。 「プロテスタントの国」であったオランダでは、「教会よりも ...

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2026年8月16日

西洋絵画−印象派

舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...

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2026年8月16日

西洋絵画−ドイツ表現主義

著作権に対する配慮:当記事に掲載している模写作品の中には、著作権保護期間中のものが含まれています。そのため、「引用元(元絵)の明記」・「引用の必要性」・「画像は自前で用意すること」を徹底した上で、当記事の作成に望んでいます。 舞台 ドイツ これまでフランスに押され気味であまり活躍の場がなかったドイツでしたが、遂に自国を始点とする芸術運動の波風が立ち始めます。というのも、「近代化」を急激に進めて行ったドイツでは、それだけ社会に対する不満も生まれやすく、「苦しみを表現する画家」たちを産むには最適な土壌だったか ...

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2026年8月16日

西洋絵画−フランス・バロック

舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...

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2026年8月16日

西洋絵画−マニエリスム

舞台 国際的な展開 イタリアに端を発したマニエリスムは、16世紀後半には国際的な広がりを見せます。 背景 反宗教改革に乗り出す カトリック教会が「反宗教改革」に乗り出す時代、「神秘的な表現」が求められるようになります。 絵画による奇跡体験 論理を持って「奇跡」を説明することは出来なくても、絵画の世界の中でならそれは可能になるからです。 劇的な表現の追求 それはやがて古典主義の特徴である、「穏やかさ」や「荘厳さ」、「静けさ」や「バランスの重視」に対して、より「魂の根源」に迫る表現に至りました。 ミケランジェ ...

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-日本建築史