2025年6月23日
西洋建築-ゴシック・リヴァイバル
背景 啓蒙主義の台頭 17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、啓蒙主義が席感していました。啓蒙主義は、合理性や科学性を重視し、人間は理性的に考えるべきだと主張します。そのため、古典主義的な芸術や文化と相性が良く、古代ギリシャ・ローマの美学が模範となります。 しかし啓蒙主義が進展するにつれて、過度に理性を重視する考えに疑問を持つ人々が現れました。たとえば芸術においては、人間の感情や内面世界を無視して外面的な表現に囚われている節があり、また決まりきった規則や格式に基づくものが多く、個性や独創性が抑制する ...
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2025年6月23日
日本建築-大仏様
時代背景 力をつける寺社 この時代の寺社は、各地に荘園*を持つようになり、財政的にも潤っていました。それに伴い、政治的な力も強めていきます。 荘園:領主が自らの所有する土地を農民や奴隷などに貸し出して、彼らからの税を収める経営形態。土地を借りる農民や奴隷は、作物や畜産物などの収穫物や一定の労役を支払うことによって生計を立てていました。 僧兵による武装化 寺社が権力を握る中、自分たちの力で社会を切り開き、大和国の実権を握ったのは平清盛でした。もちろん、もともと大和国での特権を保持していた南都寺院からすれば、 ...
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2025年6月23日
西洋建築-アーツ・アンド・クラフツ
背景 分業体制の始まり 19世紀後半のイギリスでは、産業革命によって工業化が進み、工業製品の需要も高まっていました。それに伴い、機械による大量生産や標準化が進む一方で、工芸品や手仕事の価値は低下していきます。 モリスが立ち上がる 機械的かつ分業的な生産方式を強いられる現状に、一人の男が声を挙げました。我らがW・モリスです。彼は機械による大量生産や標準化に反対し、手仕事や伝統工芸品の価値の再評価を図ったのです。 彼は芸術を労働における人間の悦びの表現であると主張しました。そして物作りの労働が悦びと感じられる ...
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2025年6月23日
西洋建築-ビザンティン
背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...
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2025年6月23日
日本建築-大衆寺院
時代背景 寺院にも自営が求められる 18世紀に入る頃には、幕府や諸藩の財政は悪化し、寺社の造営を行う力を失っていました。そのため、各寺社は自らでの資金調達を迫られます。その方法として、「開帳」「勧化」など、民衆から銭を集めるための行事に力を注ぎます。 行事の集金化 「開帳」は本来、寺社の秘仏などを開扉して、人々と神仏を結縁する宗教行為でした。しかし、財政に困っていた寺院は、「開帳」を堂舎の建立や修理費用のための集金事業として活用するようになったのです。 経済力を身につけた民衆 寺院が疲弊していた一方で、民 ...
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前の様式
時代背景
仏教の伝来
六世紀半ば頃、仏教が百済から日本に伝来*しました。その教えが持ち込まれると同時に、それを体現する場として寺院建築が必要になり、それに由来して仏教建築の新技術が持ち込まれます。
聖明(百済の王子)は、日本の皇室との外交関係を深めるために、日本に渡来し仏教を伝えたとされています。
仏教を受け入れるか、拒否するか
ただ、仏教は満場一致で受け入れられた訳ではありませんでした。いわゆる、「排仏派」と「崇仏派」に分かれます。
国際情勢に明るい蘇我氏は賛成
主に「崇仏」を主張したのは、渡来人勢力との関係が強く、国際情勢に明るかった蘇我氏です。東アジアの諸国が崇仏している事実から、日本も仏教を受容するべきであると考えました。
伝統に保守的な物部氏は反対
一方で排仏を主張したのは、原始信仰との繋がりが深かった物部氏です。物部氏は原始信仰を大切にし、守り続けた氏族のひとつでした。そのため、仏教の受容は国神の怒りを買うのではないかと恐れ、これに反対したのです。
ただし、物部氏の内部でも、「原始信仰を重んじる派」と「儒教や仏教に傾倒する派」という風に、意見が割れていました。そのため、排仏の動きは物部氏の内輪もめから生じたという見方も出来ます。
決着は蘇我氏に軍配
仏教の導入によって、中国や朝鮮半島から新しい知識や技術を獲得し、政治・文化の発展に成功した蘇我氏は、仏教を排斥して保守的な姿勢をとっていた物部氏に対して優位にありました。蘇我氏は国家行事に仏教的な要素を取り入れ、権力の一元化にも成功します。一方物部氏の方は内輪もめが絶えず、仏教を信仰する者や、蘇我氏に味方する者も現れるなど、一枚岩にはなれませんでした。結局この差が勝敗を分けることになり、587年、蘇我氏側の勝利で幕を閉じます。これによって、仏教受容の素地が整ったのです。
様式の特徴
寺院建築の始まり
仏教の伝来・受容は、東アジア各国との交流の始まりを意味していました。そしてその東アジアにおいて自国の力を示すために、寺院建築が建設されるようになります。最新の仏教文化を取り入れた壮麗な寺院を備えることは、国力を内外に示すことになるからです。
技術者の渡来
これまで自国になかった寺院を造営するには、まずその技術者を必要としました。そのため、百済から技術者が渡来してきます。彼らとの交流によって、飛鳥寺や四天王寺が建てられるのでした。
造形・特徴
仏教では、「仏」・「法」・「僧」を三宝として重視します。「仏」は悟りを体現した者、「法」は仏の教えを説いた経典経巻、「僧」は法を学ぶ仏弟子です。これをそれぞれ建築に換言してみましょう。
仏=「金堂」「塔」
唐招提寺金堂
仏像を納める「金堂」は、もちろん仏を象徴する建物です。
薬師寺東塔
「塔」は仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるための建物なので、これも仏を象徴しています。
法=「講堂」「経蔵」「鐘楼」
唐招提寺講堂
仏教の教えを学ぶための建物である「講堂」は、法に分類できます。
唐招提寺経蔵
教えを記した経典を納めておく「経蔵」も、法に分類できるでしょう。
唐招提寺鐘楼
時を告げる「鐘楼」も、私たちに教えてくれる存在なので、法を象徴します。
僧=「食堂」「僧房」
薬師寺食堂
僧が食事を取るための「食堂」は、僧に分類されます。
薬師寺僧房
僧侶が居住するための「僧房」も、僧に分類されます。
伽藍配置
以上に挙げた七つを総称して、「七堂伽藍」といい、伽藍における位置関係を「伽藍配置」といいます。「伽藍配置」は、施主の要望はもちろん、時代性なども反映します。
飛鳥時代の伽藍配置
飛鳥時代の伽藍配置では、「物舎利を納めた塔」・「仏教儀礼に重要な金堂」が伽藍の中心に置かれます。
飛鳥寺
釈迦の骨が祀ってある「塔」を取り囲むような形で、「三つの金堂」が建っています。これは高句麗などに類例のある形で、朝鮮半島の伽藍形式がそのまま持ち込まれたといわれています。
四天王寺
伽藍の中軸に「金堂」・その前に「塔」が置かれています。これは百済の王興寺や軍守里廃寺と共通する形式で、このことから百済との交流が密接であった様子が伺えます。
法隆寺
回廊で囲まれた一画に、「金堂」・「塔」が並立しています。
本薬師寺
これまでは、一つの伽藍に一基の「塔」でしたが、薬師寺では「塔」が二基並べられました。
奈良時代の伽藍配置
奈良時代になると、法会*が重視されるようになり、その際に必要とされる「金堂」と、「金堂の前の空間」が大事になりました。
法会:僧侶や信徒が集まって、仏法を説いたり供養を行う
興福寺
「中金堂の前庭」を回廊が囲み、「五重塔」は回廊の外側に置かれました。
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
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西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年6月23日
西洋絵画−フランス・バロック
舞台 フランス 太陽王ルイ14世が主権権を握る「絶対王政期」のフランスもまた、芸術の舞台となりました。自国の土壌で独自の様式を形成して行きます。 背景 フランスへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてフランスにも広がりました。 伝統を守るフランス しかしフランスでのバロックは、主に前時代様式の否定として展開されて来た各地のバロックと異なり、「古典主義」的な傾向を保ちます。 それというのも、古典尊重のルイ王朝は「古代ローマを美術の範」としたからです。 王立アカデミーの設立 また、王立アカデミーの存在に ...
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2025年6月23日
西洋絵画−フランス・ロココ
舞台 フランス 絵画史の中でも、特にロココは時代区分の難しい様式です。そもそもロココとバロックの区分を認めない説もあります。そのため当ブログでは、ロココの特徴が最も顕著に現れている、フランスで展開されたロココのみを取り扱います。 背景 絶対王政に陰りが見え始める 「太陽王ルイ14世」は、神から与えられた王権の行使者としての役割を演じることの出来た「最後の王」でした。 それというのも、1715年に彼が他界すると、その絶対王政にも陰りが見え始め、「貴族等の側近勢力が台頭」して来たからです。 太陽王からの開放 ...
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2025年6月23日
西洋絵画−フランス・新古典主義絵画
舞台 フランス 革命期からナポレオン時代にかけてのフランス。ナポレオンは絵画を、自らの理念の「プロパガンダ」として活用しました。そのため、絵画は記録的な意味合いを強めます。 背景 軽快なロココに対する反動 18世紀後半、「快楽主義的」で「感覚的」なロココ様式に対する反動として、美は表面的なものでなく「崇高」なものであると考える傾向が強まります。 崇高さを追求 そして、「装飾趣味」や「官能的な裸婦像」に代わって、「形而上的な内容」や「簡素で壮大な形態感覚」を備える古典美術が範とされました。 特徴と画家 相次 ...
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2025年6月23日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
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2025年6月23日
西洋絵画−初期ルネサンス
西洋絵画史の始まり 西洋絵画史の精神は「人間性の自覚」にある、というのが私の基本的な考えの立場です。そのため、当ブログでは、初期ルネサンスを西洋絵画史の始まりとします。 舞台 フィレンツェ 初期ルネサンスの舞台は、市民階級がいち早く台頭したイタリアの商業都市「フィレンツェ」です。 時代背景 キリスト教世界のほころび 中世ヨーロッパ社会は、これまで精神的にはキリスト教に支えられてきました。しかし、このキリスト教観というのは、人間を神の摂理にのみ従う下僕として、その限りにおいて人生の意義を認めるものでした。そ ...
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