背景 首都『コンスタンティノポリス』の誕生 330年、コンスタンティヌス大帝は、ローマ帝国の首都をギリシャの都市ビザンティウムに遷都します。その後、この都市はコンスタンティノポリスと名を改めました。 ビザンティウムに遷都したのは、ローマ帝国が内部の政治的・経済的・軍事的な問題や外敵の侵攻に直面していたためです。東方からの侵攻に備えるために、軍事上の要地でもあったこの地が選ばれました。 西洋社会の東西分裂 395年には、帝国は東西に分裂。ローマを首都とする西ローマ帝国、コンスタンティノポリスを首都とする東ロ ...
背景 第一次世界大戦後 第一次世界大戦後、各国の経済は混乱し、人々の価値観や生活様式も変化しました。ストライキやデモなども行われるようになり、社会変革が急務となります。これは戦争に参加しなかったオランダにおいても例外ではありませんでした。 オランダは、中立を守ることによって国内の平和を維持しようとしました。しかし周辺諸国の経済的混乱や政治的変化の影響を受けないわけには行かず、大量の難民や貧困層、失業者などを抱え、経済的・社会的な不安定さが続きます。そんな中、社会主義的な政策や労働者の権利擁護が唱えられるの ...
時代背景 ローマの没落 1527年、ローマ劫掠が勃発。教皇クレメンス7世と対立していたスペイン皇帝カール5世は、ランツクネヒト*を雇って、ローマを占領・略奪させました。そして激しい略奪・虐殺にあったローマでは、多くの市民が命を失い、教皇クレメンス7世も逃亡を余儀なくされました。かくしてローマは政治的・経済的に弱体化し、周辺の大国から支配されるようになって行くのです。 ランツクネヒト:15世紀から16世紀にかけて、主にドイツ圏で編成された傭兵部隊の一種。戦術に長けており、近代戦術の先駆けとも称されました。 ...
時代背景
黄檗宗を輸入

徳川幕府による鎖国の時代、外国との接触は制限されていました。しかし、大陸からの新しい影響がまったくなくなったわけではありません。1654年、明から渡来した隠元によって、禅宗の一派「黄檗宗」が持ち込まれます。そして四代目将軍・徳川家綱の加護を受け、1661年に宇治の万福寺を開きました。
黄檗宗は、禅宗の中でも実践的な哲学を重視しました。宗教的な理論や論理的思考よりも、自己の実践によって真理を理解することを目指します。

黄檗宗は、中国の禅宗である黄檗派と日本の臨済宗や曹洞宗が合流して誕生した宗派です。直感的で身体的な修行法である坐禅や行禅に重点を置き、また黄檗宗の寺院では広く一般に開かれた修行会が行われ、坐禅や読経などの仏教行事に参加することができたため、一般人にも取り入れやすい宗派として人気を集めました。

その後、海外との窓口であった長崎をはじめ、全国に黄檗宗寺院が建立されると、広間でのお茶会や禅堂での坐禅会などを目当てに近隣住民や観光客なども気軽に訪れるようになりました。
造形
伽藍の建立には日本人の工匠が従事しましたが、歴代の住職は中国の渡来僧が務めることが多く、そのため中国的な様式が堅持されました。
禅宗寺院と共通する点も多い
黄檗宗寺院は、日本式の建築様式や装飾を取り入れ、日本人に受け入れられやすいように設計されました。
二重の屋根

禅宗寺院になかった要素
アーチ状に造られた天井

円窓

中国的なデザインによって、異国情緒を表現
祟福寺第一峰門
斜めの組物によって軒下を覆いつくされています。
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
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