2025年5月2日
日本建築-浄土教
時代背景 末法思想の流行 平安時代には密教が広まり、仏教の信仰はますます篤くなっていった一方で、「末法思想」というものが流行していきます。 末法思想:釈尊の教えが失われていき、正法の世界から像法の世界を経て末法になっていくという考え方で、それは釈尊入滅後1500年から始まるとされていました。 浄土への憧れ 当時の人々にとって、末法時代の到来は、ある意味「世界崩壊」を意識させるものでした。そして、現世にもう望みがないのなら、あの世での幸せを願おう、と人々は強く願うようになります。その拠り所となったのが「極楽 ...
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2025年5月2日
日本建築-飛鳥・奈良(神社)
時代背景 天皇中心の国作り 645年に始まる「大化の改新」の流れを汲み、天武天皇は強力な軍事政権の樹立を図りました。律令制度の整備や中央集権化を進め、地方豪族の独立性を抑えます。 大化の改新:天皇中心の国作りを目指した一連の改革 その際に彼が利用したのは、「神道」でした。「神道」を国教として定め、神社を統一的に管理することで、天皇の威光と神格化を図ったのです。 この時代、すでに仏教も伝来していましたが、古代日本の政治権力は、神々との関係性を重んじることで正統性を獲得することができたという背景もあり、仏教で ...
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2025年5月2日
西洋建築-フランス・バロック
時代背景 ブルジョワ階級の台頭 フランスはアンリ4世の治世の下、ようやく政治的にも経済的にも安定した時代を迎えました。そしてこの安定期の中で、新興ブルジョワ階級が台頭してきます。彼らは商業・手工業・金融などで成功を収めた人々であり、血統による身分制度ではなく、自らの実績や成功によって社会的地位を確立しようとしました。 また、アンリ4世は彼らの支持を受けて王位に就いたこともあって、ブルジョワ階級の代表者を重用したり、商工業者や金融業者の権利を保障する政策を進めました。彼らに対して特権や称号を与え、社会的地位 ...
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2025年5月2日
日本建築-天守閣
時代背景 大名と張り合う寺院勢力 この時代の有力寺社(東大寺・興福寺・延暦寺など)は、荘園による寺社領の保持・僧兵による武装化によって、絶大な影響力・軍事力を誇っていました。寺社は戦国大名に比肩する一大勢力だったのです。 外来文化による破壊 そんな中、キリスト教の布教や交易のため、ヨーロッパ諸国から日本への来訪が増加します。これによって、多くの文化が持ち込まれました。フランシスコ・ザビエルなどがその例で、新文化の影響を受けた日本人にとっては、既存の世界観や価値観が打ち壊されることになりました。 芽生える火 ...
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2025年5月2日
日本建築-縄文・弥生
時代背景 移動生活 縄文時代は、狩猟・採集の社会です。季節ごとに、動物の移動や植生の変化を追いかけながら、河川の周辺や台地の縁辺部で食べ物を獲得し生活していました。 農耕によって定住が可能に 弥生時代に入り、水稲農耕が広まっていくと、移動生活(狩猟・採集)から定住生活(農耕)へと変化しました。この変化による建築的な変化は、たとえば、場所選びに現れます。これまでは水被害を避けて、台地や丘陵が選ばれていたのに対し、水田に水を引くために水の便が良い場所が好まれるようになったのです。 貧富の差が生まれる 農耕文化 ...
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前の様式
時代背景
南北朝時代
鎌倉幕府による長期政権は、200年以上に渡りました。しかし14世紀に入ると、幕府内部に対立が生じるようになります。そして1333年、後醍醐天皇が幕府に反旗を翻して、建武政権を開きました。
建武政権:後醍醐天皇の直轄支配下にある新たな政治体制。天皇としての権威を回復し、幕府を打倒することを目的としました。
建武政権の初代天皇となったのは、後醍醐天皇の皇子である光明天皇です。しかし鎌倉幕府の滅亡を実現できぬまま、建武政権は1348年に崩壊します。そして、建武政権崩壊後に成立した北朝には、後醍醐天皇の孫である光厳天皇が最初の天皇として任命されました。
事が複雑になったのは、主に各地の武士団は光明天皇の系統を支持し、朝廷や官僚は光厳天皇の系統を支持したことによると考えられます。さらに鎌倉幕府の解体*により、武士団同士の対立も激化。かくして日本は南朝と北朝に分断されるのです。
財政難や内部での対立、「元寇の戦い」による軍事力の低下などが重なり、鎌倉幕府は解体してしまいました。
北山文化
この南北朝の動乱を経た後、二つの朝廷を統一したのは足利義満でした。義満は、各地の守護や国人領主を味方につけて勢力を拡大すると、将軍としての権威を背景に、南北間の和平を成立させます。これによって公武が融合し、新たな文化が生まれました。義満の造営した北山殿の名を冠して、「北山文化」といわれるものです。その中で、唐物趣味も高じていきました。
特徴
寝殿造を受け継ぐ
鎌倉幕府は京都から情報を接取するのに苦労していましたが、室町幕府は京都に拠点を置いたこともあって、公家との関係も強く、また将軍自体が公家化することもありました。これ故に、将軍邸は寝殿造*の影響を受けます。
寝殿造の基本構成①:寝殿を中心に、その南庭を対・渡殿・中門廊がコの字型に囲みます。またほとんどの場合、左右対称の空間構成ではなく、左右どちらを縮小・省略した非対称の構成となっています。それというのも、東西いずれかの門を正門としたため、左右に重要度の偏りが生じたからです。
寝殿造の基本構成②:また、貴族によって形成された寝殿造の空間では、多くの儀式やその場面に応じて機能を変える必要がありました。その際に活用されたのが、壁代・すだれ・屏風・ついたて・几帳などの屏障具による、間仕切りです。また、これらの屏障具に台・棚・箱などを加えて調度といいます。この調度品によって部屋を仕切る室礼という方法が寝殿造ではとられました。これによって、儀式や客人に応じてレイアウトを替えることが可能となり、室内の様相を変えることが出来たのです。
時代背景:8世紀後半、天皇中心社会の再構築を図った天武天皇でしたが、その後、天皇と婚姻関係を結んだ藤原氏が摂政関白の立場で力を付けていき、摂関政治が始まります。摂関政治が始まると、天皇の存在は有名無実化していきました。それに伴い、威光を示すための宮殿建築なども必要とされなくなります。そんな藤原氏を頂点とする摂関政治は、まさに貴族社会の時代でした。そして平安京に住む貴族たちによって文化は成熟します。建物と庭園の一体化など、寝殿造のスタイルはこのような時代背景のもとで作られました。
特徴:寝殿造は、身分の差を感じさせる装置でもありました。たとえば、寝殿造の邸宅周囲を囲む塀や桧皮葺は上位の官人にしか許されず、また建物の内側が儀式の場、外側が待ち人の場という風に強く内外が区別され、床に上がれるものと床に上がれないものという風に、身分階層を視覚によって表したのです。
東山文化
八代将軍・義政の時代に至ると、能楽・水墨画・茶の湯などの発展とともに、座敷構えや座敷飾りの文化が醸成され、庭園の発達とともに両者が融合しました。この時代の文化を、義政が造営した東山殿にちなんで、東山文化と呼びます。これは、やがて座敷構えを備えた書院造の礎となるものでした。
造形
1192年、鎌倉幕府の開幕により、武家社会が到来しました。当初の武家住宅は、寝殿造を基本としたものでしたが、封建制度に由来して、次第に主君御成のための接客施設という役割を担うようになります。かくして、接客空間と生活空間の分離が進行するのでした。
築地塀
門
この時代、門は身分社会を表すものでもありました。たとえば、正門を通って良い人、脇門から入らなければならない人という風にです。他にも、勅使門といい、勅使が来たときにしか開かない門、天皇の行幸や将軍の御成の際にだけ開かれる門などもあります。
画一的な様式でまとめるのでなく、各層ごとに様々な要素を持ち込む
舎利殿(金閣)
一層目は、蔀なども用いた寝殿造の要素のある住宅風です。これは人の世界が一番下、ということを暗示しています。二層目は、和様の仏殿風です。和様の形式ということは、密教を表していると考えられます。三層目は、禅宗様の要素を用いた仏堂です。当時将軍が庇護していたのが禅宗なので、各層の順番は社会階層を表している、という説が有力となっています。
観音殿(銀閣)
二層からなる観音殿も、並び順は金閣と同様の意味で考えられます。一層目は住宅風、二層目は禅宗様仏殿風です。
書院造
東求堂同仁斎
この時代頃から、座敷構えの床・棚・書院・帳台構えが社会的なステータスとなります。また建物の形式だけでなく、そこに何を置くかも大事になっていきます。花瓶・唐物・絵画・掛け軸など、飾り付けの要素が加わったのです。
参考文献
日本建築史講義|著.海野聡|学芸出版社
建物が語る日本の歴史|著.海野聡|吉川弘文館
建築の歴史|編.西田雅嗣・矢ケ崎善太郎|学芸出版会
日本建築様式史|監修・太田博太郎|美術出版社
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西洋建築史年表
日本建築史年表
2025年5月2日
西洋絵画−フランス象徴主義
印象派に並行して、象徴主義が発展 舞台 フランス 象徴主義は各国において多様な発展を遂げました。中でも大きな影響を与えたのは、フランスにおいて展開された象徴主義です。 背景 もう一つの芸術運動 19世紀後半、印象派が盛り上がりを見せていたその頃、並行して別の流れが形成されていました。 商業化する芸術 先導したのは、「科学」と「機械万能」という時代における「実利的なブルジョア精神」や、「芸術の卑俗化」に嫌気がさした画家たちです。 人間の内面を描く 彼らは、人間存在とその運命に関する「深い苦悩」・「精神性への ...
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2025年5月2日
西洋絵画−オランダ・バロック
舞台 オランダ 16世紀末、「プロテスタント」勢力の強かったフランドル地方の北部にて、「スペイン領からの独立」を果たした新教国、オランダが誕生しました。 背景 イタリアからオランダへ輸入 イタリア起源のバロックは、国境を超えてオランダにも広がりました。 プロテスタントの国 オランダ共和国として独立を果たし、「東インド会社等の国際貿易」により、目覚ましい「経済発展」を遂げたオランダは、その経済力を背景にオランダ独自の「市民文化」を繁栄させていました。 「プロテスタントの国」であったオランダでは、「教会よりも ...
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2025年5月2日
西洋絵画−ロマン主義
舞台 フランス 革命期から王政復古期にかけてのフランス。新古典主義が絵画の主導権を握っていた一方で、その「静的で厳粛な様式」は、人の心を真に動かす力に欠けていました。そんな中、絵画に再び「動き」を取り戻そうという流れが形成されます。 背景 ヨーロッパ各国の独立意識 「フランス革命」・「ナポレオンの侵略」という二つの事件をきっかけに、各国は「自我」に目覚めます。 古代ローマという西欧各国における「共通の祖先」から、「自国の歴史」・「風土」へと関心が移ったのです。 プロパガンダとしての絵画 ナポレオンの第一帝 ...
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2025年5月2日
西洋絵画−印象派
舞台 フランス フランス美術は西洋絵画史の主要舞台の座を確立しました。イギリス風景画の伝統もスペイン画家ゴヤの系譜もフランスに吸収され、オランダ画家ゴッホもこの地での修行を得て覚醒しました。 背景 印象派展の開催 1874年、モネ・ルノワール・セザンヌ・ドガ・ピサロらによって、展覧会が開かれました。 彼らの作品に共通して見られる「スケッチ的な作風」から、この展覧会に集まった彼らは総称して、「印象派」と命名されることになります。 多様性に満ちた印象派グループ しかし実際のところ、彼らには明確な意味での共有さ ...
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2025年5月2日
西洋絵画−初期ルネサンス
西洋絵画史の始まり 西洋絵画史の精神は「人間性の自覚」にある、というのが私の基本的な考えの立場です。そのため、当ブログでは、初期ルネサンスを西洋絵画史の始まりとします。 舞台 フィレンツェ 初期ルネサンスの舞台は、市民階級がいち早く台頭したイタリアの商業都市「フィレンツェ」です。 時代背景 キリスト教世界のほころび 中世ヨーロッパ社会は、これまで精神的にはキリスト教に支えられてきました。しかし、このキリスト教観というのは、人間を神の摂理にのみ従う下僕として、その限りにおいて人生の意義を認めるものでした。そ ...
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